【金沢・笠舞】
今回はマニアックな金沢伝説です。百万石や一向一揆よりズートズート大昔の笠舞の話です。笠舞は、小立野と犀川に挟まれた金沢を代表する河岸段丘にあり、近くに住む私は、子供の頃、嫁坂を降りて新坂の下の道を通り、猿丸神社の横から、細い道をテクテク歩いて、牛乳を貰いに行ったところです。
(猿丸神社)
その頃、この辺りには有名な乳業会社があり、付近の農家では2、3頭の乳牛が飼われていました。少し高学年になると牛小屋の辺りで、フナ釣りの餌の“みみづ”を捕りに行ったことなどが思い出されます。
(交差点から見える猿丸神社)
昭和の初めに、笠舞から縄文土器が発掘されたそうです。学者が書いたものによると、この辺りは、大昔から犀川が流れ水には困ることもなく、眺望もよいので原始人にとっては、絶好の居場所だったと書かれていますが、現在の住み心地は如何でしょうか?今から、少なくても1万年前から人が住んで居たところですから、近所によほど根性悪が住んでいない限り住みにくい分けが無いはずです。
(猿丸神社の案内板)
金沢人にとって笠舞といえば、初めに頭に浮ぶのは猿丸神社です。笠舞の地名も、猿丸太夫が、都に行くため、犀川のほとりに差し掛かった時、突風で、被っていた笠が急に舞ったことから”笠舞“の名がついてと伝えられています。
(あの古今和歌集では詠み人知らずとされいる「奥山に 紅葉踏み分け鳴く鹿の 声聞くときぞ、秋は悲しき」も「小倉百人一首」では猿丸大夫が詠んだとされていますが、一説には、猿丸太夫は架空の人物で、柿本人麻呂と同一人物ではないかなどといわれています。)
しかし、金沢では大昔から、猿丸太夫は山背大兄王(やましろのおおえのおう)の子、聖徳太子の孫にあたり、蘇我氏の迫害で、加賀に逃れ、今の猿丸神社のところに住んで居たとういう伝承があります。
(猿丸神社の境内)
伝承によると、ある年、都の歌会に出席してから帰らなかったといいます。そして「加賀の国は、雪が降って、物寂しい国、再び帰らず」と言ったとか言わなかったとか・・・。しかし、村には養鶏などを教えたなどと伝えられ、村人は塚を築き、社を建て神として祀ったといわれています。それがどうも今の猿丸神社のところだそうですが、何と言っても1300年以上も前の話ですから・・・信じるしかありません。
(本殿前にある鉄釘が打たれという杉の切り株とその中の若い杉)
また、猿丸神社のところが一向一揆の時代には砦だったという説もあります。さらに藩政期には、呪詛(じゅそ)の丑の刻参りで知られ、闇に紛れて鉄釘(くぎ)を打ったといいます。今は、その杉の老木も伐採され切り株が残っています。
(呪詛:のろいのこと、相手の災いが起こるようにすること)
(最近、釘が打たれていた”けやき”)
それから、藩政初期には、水が良いので、稲穂は長く、他の村の7倍もあり、稲籾が多くて、ある年などは、一穂に3,530粒もついたと書かれていますが、藩政初期の寛文10年(1670)村御印によると村高は714石で百姓17名、年貢が7ッ2歩(72%)綿役3匁、野役19匁と、税がやたらに高かったと聞いた事も有ります。
(村御印:年貢の高を書いて村に渡された書類で、判子の色が朱ではなく、黒かったといいます。)
稲籾のことはよく分かりませんが、明治の笠舞の記録を調べてみると、一反当りのお米の生産量は1石1斗2升と他の地域と余りかわりません。また村の戸数は97戸、そのうち農業は53戸になっています。
また、城下に近いので、藩の御用地として召し上げられました。上笠舞は、鉄砲足軽が住み、下笠舞は、篠原家の下屋敷や手木足軽や台所付き足軽の組地で、旧手木町や旧台所町はその名残です。
(真ん中の黒い樹が”ヤマトアイダモ”)
いまの猿丸神社境内には、けやき、たぶの木を中心とした樹林で、特に樹高25m 幹周5.8mにも達するけやきなどの大木10本があり、古い昔の神社の佇まいを感じさせます。けやき、たぶの木、銀杏などの高木22本、ツバキ、モミジなどの低木41本、鳥居の左の“ヤマトアイダモ”も含め金沢市指定の保存樹です。
参考史料:「金沢古蹟志」森田柿園著など