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寺町台“寺活協議会”長久寺①

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【寺町5丁目】
平成26年7月に発足した“寺町台寺活協議会”は、現在、旧野田道の曹洞宗長久寺、日蓮宗妙法寺と旧鶴来道の天台真盛宗西方寺、法華宗承証寺の4寺院の僧侶が宗派を超え地域活性化に取り組まれていますが、何れのお寺も金沢では知る人ぞ知る3~400年の歴史ある有名寺院です。



(春、寺町台の長久寺墓地より犀川右岸)



(安政期の寺町台古地図)


今回より、寺町台寺院群の歴史やお寺のまつわる言い伝えやお宝など追々紹介します。約70もの寺社と多く、しかも、それぞれ由緒正しく、前田家との関わりも深く、すべてを紹介出来るか分りませんが、まずは“寺町台寺活協議会”の4ヶ寺からスタートしようと思います。先ず、今回は曹洞宗長久寺です。


(金沢市発行の「静音の小径」)


(金沢市観光交流課が発行する「静音の小径」の寺町寺院群マップには、66の寺社がナンバー付きで紹介され、内14寺が「寺町台重伝建地区」以外に位置しています。そして、ナンバー付き以外の寺院や現在史跡ですが、かって寺院で有ったことを記す石標が建っているところも含めると70寺社以上になります。また、その「静音の小径」には、56の寺社の写真と由来が記載されています。)



(門前にある案内板)


≪鶴雲山長久寺≫
長久寺は、初代藩主前田利家公の妹津世の菩提寺です。門前の案内板の由緒によると「・・・慶長13年(1608)創建。高畠石見守定吉(さだよし)の後室長久院(生前は長寿院)のために栖覚寺を郊外にある大豆田高畠氏の下邸に建てたが、その粧田三十石を寺領として寄進し、その15年後、長久寺と改めたとある。寛永12年(1635)泉寺町玉泉寺前に転じ、明暦元年(1655)、寺封を増し五十石とし、延宝4年(1676)野田寺町覚源寺の遺祉にある現在地に移って、長久寺を建立したとある。・・・」と書かれています。


(長久寺)

●利家公の妹津世と畠山家
津世の夫は、利家公の妻まつの母が再嫁した畠山直吉の孫定吉で、前田家と高畠家との絆はことのほか強く、利家公より一歳上の定吉も「荒子七人衆」として常に利家公と激戦をとものした側近中の側近だったそうです。


(長久寺に今も残る舟岡山城の城門といわれる門)


(舟岡山から手取川が一望)

(舟岡山の城址跡の案内板・舟岡山)


金沢に入城した利家公は、定吉に鶴来の舟岡山にある舟岡山城を任せます。この砦は、白山ろくへ通じる街道と手取川扇状地を一望する要衝で、源平合戦のころすでに築城されていた軍事上の重要な砦で、一向一揆と戦った佐久間盛政らの織田軍によって陥落しますが、その後、石垣を整え高畠定吉が城主になると金沢南郊を堅守する前線基地となります。



(長久寺の高畠定吉と津世の墓石・大きいのが津世)



当時の高畠家の禄高は1万7千石。加賀藩では後の加賀八家クラスの高禄ですが、利家公の死後、関が原の戦い前に豊臣側支援を強く主張した定吉は、利長公や芳春院(松)と対立し、関が原の合戦時は金沢城の留守役を務め、翌年、剃髪し隠居。その後、京の移り1年足らずで息を引き取ったといいます。


(つづく)


参考資料:2009・3・16の北国新聞記事・長久寺門前の案内板など


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