【金沢の鬼川伝説①】
1月も下旬、早い!!もうすぐ節分。藩政期、金沢には節分の豆まきの行事に代々「福は~外、鬼は~内」とか「鬼は~内、福は~内」という家がありました。家禄千五百石を領した前田家の家臣で、今の香林坊下に屋敷がありました。
(鬼川(大野庄用水)伝説の由来)
家は代々鬼を祭祀とする三河武士で、歌人で越中の国守だった大伴家持で有名な豪族大伴氏の末裔の伴(もと)家のそのまた子孫で、人呼んで鬼と称する家で、藩政初期、当主富永佐太郎は、金沢で一番古いといわれている大野庄用水の開鑿の任に当たったので、この用水も“鬼川”と称したと伝えられています。
(現在の大野庄用水①)
伝説では、昔金沢の町の中から燃え上がった火は、折からの強い風にあおられて、またたく間に燃え広がりました。その時、富永様の屋根の上に、妙な者が上がって行ったといいます。それが2匹の鬼で、畳一枚くらいもあるでっかい団扇で、火の子をはらい出し、だんだん燃え広がる火の手に向かって、ユッサユッサと振り回し始めたといいます。
すると、火の勢いが急に弱くなり、やがて火は消え、富永様のお屋敷を火事から守ったのは二匹の鬼だということになり、やがて「富永様のお屋敷にゃ、鬼が住んどるんやろか。」という噂が伝わっていったといいます。
(現在の大野庄用水②)
どうも富永家の先祖は、源平合戦や戦国時代はたいそう活躍したそうで、いざ戦となると、鬼の絵の“のぼり旗”を背中に、馬で敵陣に飛び込むと、「ひけい。ひけい。鬼の富永が来たぞ~。」とか「戦っても敵わん。逃げろ、逃げろ。」と敵は散ったといいます。
こうしていつの戦いでも、なぜ「鬼の富永」と言われ、相手に怖れられていたのかというと、それには訳があったといいます。
(現在の大野庄用水③)
伝説によると、富永家のもっと遠い先祖の一人に、武士とはいえ、大変に心も体も弱い人がいたそうです。戦に行っても敵の姿を見ると、とたんに足がガタガタ震えだす始末で、仲間からも、弱虫、腰抜け、と馬鹿にされていたそうです。
このことを自分でも大変恥ずかしく思い、山奥に住む役の行者(えんのぎょうじゃ)という人に仕える鬼のところに行って、心と体を鍛えてもらうことにし、山奥に入り鬼の弟子になり、三年三ヶ月のきびしいく辛い修行を辛抱したといいます。
やがて三年三ヶ月が経ち、鬼の師範から「よう、きびしい修行に良く耐えた。これでお前はこの山の仙人になったのじゃ。これからは、時々里におりて、国に残して来た子や、一族の者に乗り移り、大きな働きをするが良い。」というお墨付き戴いたそうです。
話は戻って、金沢の大火から救われた富永家では、家中手分けをして鬼の行方を捜しましたが、鬼の姿はどこにも見当たりませんでした。そこで、当主は、土蔵の中に立派な祭壇をつくり、お神酒とお魚をお供えして、鬼にお礼の気持ちを表すことにしたといいます。
ところが、翌朝蔵の中にお供えした魚が骨だけになっているし、お神酒も空っぽになっていたそうです。
また、富永家には、番町皿屋敷に似た伝説があります。昔、気性の激しい当主が侍女を斬って井戸に投げ込んだそうです。以来2,3代にわたって目を患うものがあり、殺された侍女の祟りとして、供養のため邸内に地蔵堂を建立したといいます。
昔、香林坊下の映画街の入口の広場に便所と一緒に地蔵堂があったといいます。その地蔵堂は、もともと富永家に有ったものだそうで、今、小立野の宝円寺さんの門前にあります。
さらに、富永家の疱瘡伝説というのがあります。富永家には、“疱瘡”天然痘に関する伝説です。この家の当主が霞網(かすみあみ)で“疱瘡神”とも“疱瘡の鬼”ともいいますが、それを捕らえたことがあり、この家の門をくぐると疱瘡にならないということが言い伝えられ、明治の初めまで“はやった”そうです。
疱瘡については、幕末、当時の日本の約3000万人の人口に対して30万人が死亡し、発病者にいたっては150万人を数えてといいます。後に緒方洪庵や金沢では黒川良安らの種痘で、天然痘が撲滅されました。
富永家は、幕末の地図を見ると、香林坊下に四家ありました。他に二家があり、六家の本家と分家があったそうです。今も、県内には、金沢や小松にご子孫がいらっしゃると聞きます。初代のお墓は養智院にありますが、六家の菩提寺は泉野寺町の希翁院だそうです。
参考文献:疱瘡神,鬼 執筆者 長岡 博男書名・誌名 大阪民俗談話会々報など