【金沢・鬼川伝説②】
金沢の片町(旧古寺町)にある潤光山養智院は高野山真言宗の寺院で、泰澄大師や伝導大師や弘法大師が、さらりと出てくる伝説のお寺です。ご本尊は日本の三地蔵といわれ、寺暦は、千有余年前の天長元年(824)淳和天皇の勅命により、大聖歓喜天を勧請して創建されたそうです。
(養智院)
(大聖歓喜天は、歓喜天(かんき(ぎ)てん)聖天(しょうてん)ともいい、人を選ぶといわれ、非道な人間には縁を結ばないし、勤行を一生怠ってはいけないともいわれています。養智院では鳥居が設けられている。)
(聖天さんの看板)
伝承によればご本尊地蔵菩薩は加賀延命地蔵と称され、天長2年(825)弘法大師が北国を巡錫された時、能登の国吼桜山に登り一の霊木を以って一刀三礼して彫刻されたと伝えられています。
(由来)
寿永2年(1183)6月、兵火に遭いますが再建され、その後も数度の火災に遭い、正徳3年(1646)に元祐上人により再興されたといわれています。
弘法大師作の加賀延命地蔵菩薩は2尺5寸(約76cm)の立像で、元禄6年(1693)養智院の住僧隆元阿闍梨は吼桜明神の霊告によりご本尊としてお迎えしたといわれています。
(養智院には、弘法大師作の加賀延命地蔵の他に最澄大師作といわれる木像の越中立山地獄谷地蔵尊や鬼川地蔵菩薩などがあります。鬼川地蔵菩薩は天正年間(1573~1592)、鬼川の開削の際に発見され、当時の開削奉行富永佐太郎が寄進したものと伝えられています。)
正徳年間(1711~1715)5代藩主綱紀公はこの辺りの寺院をことごとく転地を命じましたが、ある夜綱紀公の夢枕に地蔵菩薩が立ち「この養智院は鬼川の守護のために永く残しおかるべし」と3日にわたって告げたといわれ、以後、鬼川と城下の鬼門鎮護のため転地されず、鬼川と金沢城裏鬼門の守護のため、この地に残ったといいます。
(鬼川(大野庄用水)の石碑)
(日本の三地蔵は、石川県金沢市の真言宗養智院「木造加賀延命地蔵菩薩立像」の他、滋賀県木之本町にある時宗の寺院木之本浄信寺「地蔵菩薩銅像」、 徳島県小松島市の四国八十八箇所第十九番札所の立江寺「延命地蔵尊」)
(養智院の聖天さんの鳥居)
この加賀延命地蔵は、文学の地蔵尊とも言われていて、仏神や霊からのお告げ御霊告に、俳句“居よい哉 亭主次第の冬の客”と“濁りつる心の水に月ありと たがまことより たずねそめけん”の和歌があります。
(養智院の墓地)
元禄年間(1688~1704)、住僧隆元阿闍梨は号を“素然”といい俳諧をたしなみ蕉門十哲の一人”支考”が金沢の来たおり、養智院烏水亭で”素然“”北枝“”秋の坊“で、俳諧を開き、御零告の御句を立句にした俳諧一巻を奉納したといいます。
(凡兆の墓)
なお、墓地には、住僧だった素然の墓のほかに、金沢の出身で京都に出て医者になり、そのとき芭蕉に出会い師事したという俳人凡兆の墓や句碑もあります。
“上ゆくと 下来る雲や 秋の天 凡兆”
“すいせんや 時のしらけて 涅槃経 素然”
“夏は橋 この川上や 菊と月 支考”
参考資料:潤光山養智院発行のパンフレットなど