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寺町台”寺活協議会の寺院“妙法寺

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【寺町3丁目】
門前を通ったくらいしか知らない妙法寺さんですが、寺町台の寺活協議会の寺院ということから、参詣もご住職にもお会いしたこともないのに予備知識をと思い調べてみました。ほとんどが上面だけの孫引きですが、以下まとめました。



(妙法寺)


お寺の門前の案内板等によると、妙法寺は、日蓮宗で山号は大蓮山。開基は加賀藩初代藩主前田利家公の弟佐脇良之の息女(実名不詳・園智院妙浄尼)で、生母は淀君の乳母「大局(だいのつぼね)」を称した人、父亡き後は利家公お松の方の養女として育まれます。





(妙法寺の門)

(塀の石垣は、お留石の赤・青の戸室石)


夫は前田家の家臣でお松の方の従兄弟篠原長重の養子篠原一孝。父の菩提供養などのため、顕性院日栄上人を開山として天正元年(1573)10月に尾張、荒子に建てられ、その後、前田家の移転とともに、越前府中、能登七尾、金沢尾張町と移り、元和元年(1615)現在地に伽藍を構え今日にいたりました。



(妙法寺前の寺町3丁目バス停)


(妙法寺には、石川県指定文化財「圓智院妙浄尼画像附紺紙金泥妙法蓮華経八巻、漆塗経箱」があり、画像は、戦国女性の代表的な肖像画といわれているそうです。また、利家公より拝領の陣羽織を法服にした七条袈裟、開基持仏の鬼子母神木像があると聞きます。)


(妙法寺の満天星躑躅)


妙法寺の満天星躑躅(ドウダンツツジ)の特徴は何といっても大きさです。その大きさは樹高約4.0m・葉張は東西に約7.15m、南北に約7.3m・根元周は1.55mで、石川県下において最大級のもので、枝振りは地面に近く、東に向かって力強く伸びており、樹齢は不明ですが、妙法寺が現在地に置かれた元和元年(1615)に、庭木として植樹されたものと考えられます。(市指定天然記念物平成20年3月11日)


(満天星躑躅(ドウダンツツジ)の案内板)


(満天星躑躅(ドウダンツツジ)は、本州、四国、九州の温暖な岩山に生え、自生地が少ない落葉低木です。金沢では4月下旬から5月上旬に葉が出て、1週間位経った頃に開花します。白色い花は5mm程、枝先に散形状につけ葉の大きさは2cm程で枝先にかたまってつきます。紅葉は見事で11月中旬が見頃です。金沢では、武家屋敷の寺島蔵人邸が有名ですが、兼六園でも見ることができます。)



(妙法寺の墓所)


≪佐脇藤八郎良之≫
幼い頃から刀の扱いに長けていたと聞きます。佐脇家(佐脇興世)へ養子に行きます。織田信長に小姓として仕え、永禄元年(1558)の“浮野の戦い”に参加。永禄年間の初めには、兄利家公とともに赤母衣衆となります。永禄3年(1560)5月の桶狭間の戦いでは、急遽出陣した信長に岩室重休・長谷川橋介・山口飛騨守・加藤弥三郎とともに真っ先に従い、永禄12年(1569)の“大河内城の戦い”では、尺限廻番衆を勤めたといいます。


佐脇家は、室町幕府奉公衆の系譜を持ち、「永禄六年諸役人附」には外様在国衆として、
「佐脇上野介、尾張衆」と記されており、前田家より格は上であったといいます。また、良之は尺限廻番衆とは、旗本衆で、主に本陣の守備や限定的(柵内)な普請を任されたといいます。


(夫人は、良之が戦死したころ、作右衛門久好を産み、のち淀君の乳母になります。その由緒から、利常公の次男利次(富山藩祖)の乳母を務め、「表局」と称して江戸の御殿に在勤し、同地で病死します。久好(または久好の子?)も利次に仕え、富山藩士になり800石を拝領したといいます。)



(妙法寺の案内板)


その後、長谷川・山口・加藤とともに信長の勘気をこうむったため勘当され、ともに徳川家康のもとに身を寄せ、元亀3年(1572)12月の“三方ヶ原の戦い”に参戦し討死したといわれていますが、負傷し、その傷がもとで没したともいう説もあります。



(家康のしかみ像)


(三方ヶ原の戦いは、通称「顰像(しかみぞう)」といわれる家康の苦渋の表情の肖像画で有名ですが、武田信玄の陽動作戦に乗せられた家康は浜松城を出撃、三方ヶ原で完膚なきまでに叩きのめされ戦いで、多くの将兵を失い自分に対する戒めとして描かせたといいます。また有名な俗説に、この戦いにおける武田軍の戦略をそのまま後の関ヶ原の戦いで用いて、大垣城に籠城する西軍を野戦に誘い出したと伝えられています。)



≪篠原一孝(出羽守)≫
前田家の家臣、芳春院(まつ・利家の正室)の従兄弟・篠原長重の養子となります。妻は前田利家の弟・佐脇良之の娘、通称・勘六、肥前守、出羽守、末森城救援・小田原攻めに参加、利家公の遺言で慶長の危機のときは金沢城の留守居に指名されました。大阪の陣に参加し戦後16000石を領し、前田利長公の執政となりました。石垣普請の巧者であったが築城については高山右近と意見が合わなかったといわれています 。


元和2年(1616)死去。長男の主膳は早世し、次男の出羽が家督と1万250石の知行を継ぐが、その子の岩松が早世したため断絶した。三男の重一は1000石で分家し、出羽の死後に2000石を加増された。四男の虎之助は1000石で分家するも早世しました。



(今、彦三緑地にある元篠原家の門)


篠原家は、幕末まで出羽町に屋敷があり知行は3000石でした。


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