【飯山市】
少し間が開いてしまいましたが、飯山の続きです。前にも書きましたが飯山は城下町、お城を守ったのかどうかは分かりませんが、千曲川沿いの飯山城を囲むように20数もの寺社が建ち並び、かっての北信州飯山の繁栄と歴史と文化を伝えています。
初めて訪れましたが、お気に入りの町になりました。今回はバスでしたが、この日本の「ふるさと」は、今年3月14日に北陸新幹線が開通し、金沢から最短で1時間15分と身近になり、また来たい町の一つとして心にしまい込みました。
町には「寺めぐり遊歩道」が整備され、各寺社をつなぐ石畳風の小路を観光ガイドの「飯山ふるさと案内人」の解説で、好天の5月、小さな入道雲の下、上着を脱ぎ、汗を拭き拭き巡りました。
(寺めぐり遊歩道)
散策コースは、緩やかなアップダウンで、寺社の歴史や飯山を訪れた文人墨客の足跡を案内して戴きました。道端の花々、独特なトタン葺きのお寺の屋根、秋と冬の風景を写真にして見せてくれる観光ガイドの熱心さにすっかり頼りっきりで付いて行きました。
(トタン屋根のお寺)
(写真で見る秋と冬)
≪正受庵(しょうじゅあん)のこと≫
正受庵は、飯山にある臨済宗の庵で、松代城主真田信之の庶子、正受老人と呼ばれた道鏡恵端禅師が終生を禅三昧に送った禅庵と伝えられています。寛永19年(1642)、飯山城で生まれ、万治3年(1660)、飯山藩主松平忠倶の参勤交代に伴って江戸へ、江戸では、麻布の東北庵の“至道無難”もとで出家し、一年足らずにして印可を与えられたといいます。
東北庵が改築され禅河山東北寺になりことになり“至道無難”は、恵端禅師を住職に推しますが、恵端禅師は固辞し、寛文6年(1666)飯山に帰り、大成した恵端禅師の帰郷を喜んだ藩主松平忠倶は、小庵を建立して恵端禅師に贈ります。恵端禅師はこの小庵に、“至道無難”から与えられた「正受」の扁額を掲げて庵の名としました。
寛文7年(1667)には、東北寺の後継者が“無難”の弟子の“洞天”に決まった期に小石川至道庵に隠棲していた無難のもとに赴き、再び修行に勤しんだ。延宝4年(1676)の無難入寂の後、恵端禅師は再び飯山に帰りました。
このとき、生母も剃髪して恵端禅師の弟子となり“李雪”と称し、飯山に戻った恵端禅師に、藩主忠倶は一山の建立と200石の寄進を申し出たが恵端禅師は謝絶し、水戸光圀からの2度の招請も辞退し、享保6年(1721)に80歳で死去するまでの45年間、世俗的な栄達に目を向けることなく、臨済禅のために精進する日々を正受庵で送れたそうです。
(臨済宗の中興に祖、500年に一度の名僧といわれた白隠は恵端禅師の教えを受けたといわれています。現在の本堂は弘化4年(1847)の善光寺大地震後に建立されたもので、平成に入ってから創建時の姿に戻し大改修が行われました。軒下の水石(手洗い石)、数珠の老栂(とが)は飯山藩主から拝領したものといわれています。)
参考資料:信州いいやま観光局は発行の資料など