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寺町台”寺活協議会の寺院“承証寺②

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【寺町5丁目】
承証寺は、加賀藩286年の歴史に残る「逆悪の徒」といわれ、のち名誉が回復される、知る人ぞ知る人物所縁のお寺です。その一つは、寛延年間(1748~1750)から加賀藩が嫉妬の渦と化した加賀騒動の主役大槻伝蔵の屋敷に有った家紋入りの手水鉢が残っています。そして、幕末加賀藩勤皇派の志士で明治になり贈正五位を賜る福岡惣助の墓碑と祖母が法華経を小石に写経して納めた一字一石の供養塔があります。



(承証寺の門)


≪大槻伝蔵伝の「さわり」≫
大槻伝蔵は、幼少時に金沢波着寺の小僧でしたが、まだ藩主になる前の前田吉徳公の御居間坊主として仕えます。吉徳公が6代藩主の座に就くと、伝蔵は還俗して士分となり、朝元と名乗り、のちに伝蔵(内蔵允)といいました。



(門前のお寺の由来の案内板)


当時の加賀藩の財政は悪く吉徳公は再建するために、譜代の門閥層などを全て排除して「御用部屋」と呼ばれる側近たちを重用し、その中でも大槻伝蔵が特に取り立てられ財政改革を行ないます。



(金沢城)


伝蔵は、倹約令と新税の制定、米相場投機の改革などを行うことで、加賀藩の財政をある程度は持ち直し、この功績によって伝蔵は吉徳公の寵遇を受け、ほぼ毎年にわたって吉徳公から加増を受けた。最後にはその石高は3800石にまで加増され、家格も家老職とほぼ同格になります。




しかし伝蔵は、藩内の保守派や門閥層にとってはいわゆる成り上り者で、また厳しい倹約令によってそれまであった既得権を奪われるなど、保守派にとってはマイナス面が多かったことから、彼らにその出世を妬まれ、憎まれていました。



(金沢城)


延享2年(1745)に吉徳公は病死すると、その生前から前田直躬をはじめとする藩内の保守派たちは、伝蔵に対する弾劾状を数度にわたり嗣子の前田宗辰公に差し出し、宗辰公は先代藩主である父吉徳公の政策には批判的な立場だったことから、吉徳公の死から一年後延享3年、(1746)伝蔵は藩主宗辰公から蟄居を命ぜられ、その2年後には越中国の五箇山に配流になります。



大槻伝蔵は五箇山の配所で自害した)


吉徳公の側室真如院も絡んだこの一連の騒動は「加賀騒動」と呼ばれ、宝暦4年(1754)まで続くことになります。しかしこの事件についてはいろいろと疑わしいところがあり、現在では大槻派を一掃しようとした年寄前田直躬ら保守派の陰謀だったといわれています。


のちに加賀騒動は、歌舞伎で面白おかしく脚色されスキャンダル事件「加賀見山旧錦絵」として、年寄前田直躬が伝蔵の野望を阻止し、加賀100万石を救った忠臣として描かれ、物語では真如院の侍女浅尾に対する刑の執行は、数百匹の毒蛇を入れた穴蔵に浅尾を裸にして押込めたというフィクションでグロテスクな内容の物語となっています。

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しかし、現在、伝蔵は吉徳公の信任厚い新進の実力者で、藩政改革を目指し旧来の保守勢力と対立し、5代吉徳公の死後、無実の罪に落とし入れられた悲運の人というのが定説になっています。


(「加賀騒動」とは、江戸時代に、伊達騒動、黒田騒動とともに三大お家騒動と呼ばれています。)


詳しくは「前田土佐守資料館」
www.kanazawa-museum.jp/maedatosa/gaiyo/kagasodo.htm


≪幕末の志士福岡惣助伝≫
福岡惣助義比(よしつら)は今風にいうとイケメンだったらしく、後に金沢の郷土史家などから聞き書きしたものによると、眉目秀麗で侠気にあふれる武士で、天保2年(1831)福岡左衛門良正の長子として西町に生まれます。



天保9年(1838)に家督をつぎ、進物裁許、年寄中席留書御用を務め、嘉永元年(1848)には江戸詰小払方、翌2年には非人小屋裁許、文久3年(1863)には飛騨高山辺りへ尊攘派浪士の探索を命じられ出向しています。



その頃、惣助は尊攘派の影響を受け、飛騨での任務を放棄して、京都の潜入し宮部鼎蔵らの尊攘活動家とまじわり、加賀藩の嗣子前田慶寧公に報告し決起を促したことから、逼塞を命じられています。



(新撰組が一躍有名にした「池田屋の変」で京都守護職が捕らえた長州浪人吉田六郎が加賀藩勤皇派の書状を持っていた。差出人は惣助で、内容は上記のもの、これが刑の証拠だといわれています。)



(福岡惣助の墓と供養塔)


しかし、元治元年(1864)の蛤御門の変では、直接、関わりはなかったものの、事変後、藩内の尊攘派を一掃されることになり、惣助も嗣子に偽りの上書をしたとして、その年の10月26日、武士として屈辱的な刑、“生胴”に処せられます。34歳の若さでした。名は変名に日下総助。



(供養塔の解説)

今、承証寺本堂の前に、福岡惣助の墓があり、その傍らには惣助の死を嘆いた祖母が、法華経を69384字小石に写経して納めた一字一石の供養塔があります。


○後日談
蛤御門の変で処刑された勤皇派グループに対して金沢の町民は大槻伝蔵以来の悪人、「逆悪の徒」として、その遺族を石礫で打ったと伝えられています。当然、生胴の刑に処せられた福岡一族への目は厳しいもであったと思われます。



(「金沢町人の世界」)


田中喜男著「金沢町人の世界」によると、惣助の後妻に実子があり、塁を恐れて同志の足軽に実子を託し、託された同志は、わが子を犠牲にしてまで同志の子(惣助の子)を守ろうとしたという美談が記されています。


詳しくは「金沢町人の世界」田中喜男著・昭和63年7月、国書刊行会発行


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