【寺町5丁目】
恵光山西方寺は、格天井の金箔張りに絵が描かれ、漆と和紙で制作された5基の「和風のジャンデリア」があり、今風で独自の工夫を凝らした美しいお寺ですが、歴史は古く、創建は400年以上前だと言われ、滋賀県の坂本にある明智光秀が眠る天台真盛宗総本山西教寺に属します。
(西方寺)
室町時代に越前府中(現越前市)に比叡山の僧盛尊和尚が建立し、のちに金沢城付近に移りますが、元和2年(1616)現在地に移転されました。前田利家公が越前府中の城主であった頃、比叡山の僧盛尊和尚を城に招き、その法徳に深く感銘し盛尊和尚を心の師と仰ぎ親交を深め西方寺を自身の信仰の場としたと伝えられています。
≪菊姫伝説≫
前田利家公と側室岩の間に生まれた六女菊姫は、生まれてすぐに羽柴(豊臣)秀吉の養女となります。何故か近江大津の豪商(唐物問屋)西川孫右衛門重元に預けられますが、天正12年(1584)8月21日にわずか7歳で亡くなってしまいます。
(西方寺案内板)
死因は分かりませんが、亡くなったのは大津の西川重元の家とも、京都とも言われています。葬儀は近江西教寺で執りおこなわれ、利家公は金沢入城の時、菊姫の供養を願い天正13年(1585)親交のあった盛尊和尚を金沢に招き金沢に移建したといいます。
(近江西教寺の墓地には、法名は「金溪空玉童女」とあり、墓石は小さな五輪塔があったといいますが、明治17年(1884)前田家が「前田菊子之墓」と刻んだ墓碑を建立します。)
(金沢城)
利家公は、菊姫の菩提を弔うため西方寺を金沢へ移転しますが、利家公が逆縁となった子を悼む気持ちが伝わってきて、あまり語られない猛将利家公の優しい一面が偲ばれます。
のちに利家公の七女である千世(菊の異母妹)が菊姫の位牌と肖像画を西方寺に奉納します。(現在石川県県立美術館で保管、昨年6月13日から30日公開、以後公開なし)、肖像画はもう一幅あり、葬儀が執り行われて近江西教寺に伝る有名な「絹本著色前田菊姫像」です。
(千世(春香院)は芳春院の末子で、細川忠興とガラシャの嗣子細川忠隆に嫁ぐが故あって離縁され、のち前田加賀八家のひとつで芳春院の信頼が深い村井長頼の子長次に再嫁しました。)
(飴買い地蔵の由来)
≪飴買い地蔵菩薩伝説≫
藩政期から伝わる話ですが、不治の病で亡くなった身重の夫人を手厚く葬ったところ、墓地から赤ん坊の泣き声を聞へ、お地蔵さんが、赤ん坊を可哀そうに思い飴を買い与えた、と言う話が多くの人々の知るところとなったといいます。
何時の頃か、その地蔵さんを削り煎じて飲むと、子供の病気が直ると言うことが伝わると、大勢の人々が詰め掛け、お地蔵さんを削ってしまうので、お地蔵さんを守るためにお堂に安置し供養するようにしたと伝えられています。
(つづく)
参考資料:北国総合研究所・自主研究「前田家の女たち3」など
hokkoku-souken.jp/jishukenkyu/index.html
西方寺公式ブログチェン寺チャレン寺
http://unlocks.blog.fc2.com/