【金沢・蛤坂】
蛤坂は、昔、妙慶寺坂と呼ばれていたそうです。享保18年(1733)春、千日町の雨宝院からの出火は、付近537軒の民家が焼失します。この時、妙慶寺坂の通行が出来なくて避難民が混雑し、多くの怪我人が出たことで、この火災を契機に妙慶寺坂が改修され33年ぶりに通行が出来るようになります。そして焼けて口が開いたところから、人々は蛤坂と呼んだそうですが、その頃、妙慶寺坂と書かれたものがあるところから、当時は単なる俗称だったのでしょう。
(妙慶寺坂の名称は、坂上の妙慶寺門前の坂道であったことから呼ばれていたそうですが、この坂道は犀川の出水などで、たびたび崖崩れを起こす始末の悪い坂道だったらしく、元禄13年(1700)に起こった崖崩れで通行不能になり、以後33年間、藩は領民の都合など一切斟酌することなく、坂道の登り口に柵を設け通行が禁止されていたといわれています。)
その妙慶寺ですが、どんな火事が有っても不思議と焼けなかったといいます。亨保18年(1733)の大火事でも妙慶寺の近くまで火が及んでも、火は消えてしまったそうで、人々は、これは噂の「天狗」が守っているのだと言い合ったといいます。そう、今も妙慶寺に掲げられている表裏に「大」と「小」が書かれた八角形の板の御利益によるもだと信じられていたそうです。
(妙慶寺山門)
妙慶寺について「大弐の辞世の句②妙慶寺」
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11627295007.html
(妙慶寺の案内板)
≪天狗さんの寺伝説≫
その蛤坂上の浄土宗安養山妙慶寺の5代目住職向誉上人(こうよ しょうにん)と天狗さんのお話です。
要約すると・・・
上人は、ある日近江町市場を通りかかると、若者たちが集っているのでよく見ると、一羽の大きいトンビが若者たちにとり押さえられ、じたばたとあがいていたといいます。
若者に聞くと「このごろ毎日来て、店の売り物をさらってゆくので、今日は待ち構えて棒でたたき落とした」のだとそうです。そこで上人は、今までとられた売り物の代金を払うから、そのトンビをわしに譲ってくれるよう頼むと、頭らしき男は「このトンビの根性をたたき直してくださるならお金はいらない、どうかよろしくお願いします」と言います。
・・・・・。
実はそのトンビは天狗だったのです。そして、お礼をしたいと思い上人の枕元に現れます。上人は「おまえさんの気持ちはじつに嬉しいが、何か見返りを求めておまえさんを助けたのではないぞ。早く傷を直してどこかへ立ち去るがいい」といったとか・・・。
天狗のトンビは、飛んでいきますが、しばらくして板を持ってきて、その板の真ん中に爪をたて、ガリガリと何かを彫り上げます。表に大きく「大」の字が、裏に「小」の字が書いてある八角形の板だったといいます。
それを上人へ手渡すと、天狗のトンビは再びはいつくばって、「こんな事しかできなくて申し訳ないが、これは火事のお守りです。大の月には「大」の方を、小の月には「小」の方を掲げておきますと、永遠に火事からお守りできます。それでは失礼致します」と・・・。
詳しくは、金沢市の公式ホームページ「金沢の民話と伝説」
https://www4.city.kanazawa.lg.jp/
(大陰暦では、今の太陽暦のように大小月が固定していなくて、大小暦(だいしょうごよみ)は、和暦の月の大小(大月(30日)、小月(29日))をイラスト等で工夫して表現した暦が今も残っていますが、多くは単に大小(だいしょう)と表記した暦だったと聞きます。)
≪余談≫
今、金沢21世紀美術館のコレクション展「あなたが物語と出会う場所」が開催されています。この展覧会には、平成20年(2008)の秋「金沢アートプラットホーム2008」で公開された小沢剛の作品の「金沢七不思議」が出品されています。金沢の民話をテーマに制作された「天狗さんの寺」の再登場です。他に浅野川の七つ橋めぐり、芋掘り藤五郎、尾山神社山門の鏡石、弥七の豆殻太鼓、飴買い幽霊など、小沢剛の旅人としての視点で「金沢」を表現されています。
「コレクション展1あなたが物語と出会う場所」
会期:2015年5月26日~11月15日
会場:金沢21世紀美術館
主催:金沢21世紀美術館
https://www.kanazawa21.jp/
参考文献:「金澤・野町の四00年」金澤・野町の四00年刊行委員会、平成12年1月発行ほか