【旧蛤坂町】
蛤坂の地名は、前回書いた享保18年(1733)の火災後、改修された妙慶寺坂が、蛤が火にあぶられポッカリ開いた姿のようだということから“蛤坂”と呼ぶようになったと伝えられています。藩政期は野田寺町の区域内で、泉寺町に繋がる宝勝寺と真長寺の門前までを俗に蛤坂と言ったと言われています。明治4年(1871)の町名改正で俗称であった蛤坂が正式な町名蛤坂町となり、町域は、承証寺の横小路、向側は妙立寺の横小路までとなります。
(犀川大橋から蛤坂)
蛤坂町は、元和元年(1615)妙慶寺開祖の松平伯耆守の指図で、犀川の川端門前に10軒の家が付けられたのが始まりで、以後、西側、東側の門前にも家が付けられますが、犀川の川端が崩落し東側の9軒の家が崩壊したといいますが、これが蛤坂町の原形となったものと思われます。
(幕末の蛤坂界わい)
(今の蛤坂界わい)
森田平次著の「金沢古蹟志」には「この坂道は、野田寺町・泉寺町等の要路にて、実に犀川口にては野町口の本通りに劣らぬ道路というべし」と記されていますが、幕末の絵図では野町の本通りより、狭く描かれています。登り口は北陸街道と鶴来街道の分岐点で、坂を上がったところの真長寺の門前は鶴来街道と野田往還が分岐していることから「寺町の追分」と呼ばれ、主要な道路であるだけでなくこの地域の中心をなす町でもありました。
(野町大通りは、明治のはじめの「皇国地誌」に2,5間(約4,5m)から3,8間(約6,9m)とあり、蛤坂は、明治29年(1896)の改修で、延長45間(約82m)が幅員3,8間(約6,9m)とあります。また、現在の野町広小路から蛤坂町間、90間(約170m)は、藩政期の絵図などでは、極めて狭い横町ですが、明治33年(1900)に幅員5,5間(約9,9m)拡幅されとあります。その後、大正期の市電の敷設、そして最近の拡幅工事で現在の道路状態になりました。)
≪「寺町の追分」辺りの道幅≫
野田寺町の幅員は、北国街道の野町大通りよりはるかに広く同じ「皇国地誌」の野田寺町5丁目、蛤坂の中間より松月寺まで1町55間(約200m)が幅員4,5間(約8,1m)。野田寺町4丁目石伐町入口まで3町3間の幅員は5,5間(約9m)で狭いところでも4間(約7,2m)という記録があります。
(妙立寺前)
(皇国地誌:明治初期の未完に終わった官撰地誌編纂事業で、刊行されなかったが、残存する原稿や控えは「皇国地誌残稿」「郡村誌」と呼ばれる貴重な史料です。石川県では『石川県史資料 近代篇1』石川県立図書館(1974)に一部あるそうです。)
(蛇足)
徳川幕府が江戸に開府して早々に全国の道路網が整備していて、その時の定書によると大街道の道幅は6間(約10,8m)、小街道3間(約5,4m)、脇街道2間(約3,6m)、徒街道1間(約1,8m)に定めたといわれています。
(つづく)
参考文献:「金澤・野町の四00年」金澤・野町の四00年刊行委員会、平成12年1月発行ほか