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旧蛤坂町と「寺町の追分」②

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【旧蛤坂町】
石川県立歴史博物館所蔵の狩野派絵師福島秀川(1804-1880)の「金沢城下図屏風(犀川口町図)」に金沢の町並みや生活が描かれています。屏風には、当時の蛤坂の様子も描かれていて、拡大模写は香林坊の地下パセオの壁面にあります。ご存知方も多いと思いますが、最近、リニューアルオープンした石川県立歴史博物館のビデオシアターでも鮮明な画質の大画面で見ることができます。



(香林坊地下道のある蛤坂界わいの屏風絵)

(左蛤坂・右野町大通り・手前は犀川大橋)


(今、左蛤坂・正面野町大通り)

蛤坂は、日蓮宗妙慶寺門前として開かれた町ですが、その後、妙慶寺塔頭の成学寺や2代目宮崎寒雉作の梵鐘の浄土真宗本願寺派常徳寺、祇園さんの八阪神社(山伏願行寺)真言宗真長寺、臨済宗宝勝寺など寺社の町で、藩政初期には臨済宗国泰寺や泉野天神もあり、明冶になり正式に蛤坂町になると町域は、法華宗承証寺の横小路(ユーレン小路)まで、日蓮宗妙立寺の横小路(願念寺小路)までとなります。




(常徳寺)

(八阪神社)


(承証寺横丁・俗称ユーレン小路)

(妙立寺横丁・俗称願念寺小路)

(今の「寺町の追分」辺り)


≪蛤坂と俳句≫
松尾芭蕉は、元禄2年金沢を訪れ7月2日蛤坂の斉藤一泉の松玄庵に招かれ「残暑暫(しばし)手毎にれうれ瓜茄子」を発句したのは、妙慶寺向のあった庵だといわれています。


(芭蕉の資料には、犀川の岸辺、清川町の地獄尊寄付近と書かれたものがありますが、藩政期には清川町はなく犀川は崖の下まで迫っていたといいます。)



(松玄庵跡)


成学寺には、藩政期の俳人堀麦水らによって建立された「秋日碑」があります。麦水は宝暦年間のある時期、蛤坂の住人で、後に藩主の医師で南京将棋のお相手をしたといわれています。


(「秋日碑」と呼ばれる碑は、正面には“蕉翁墳”があり、左側は「あかあかと・・・」の句、右面には「宝暦五乙丑穐金城麦水連中建立」とあります。芭蕉の来沢後60年ぐらい宝暦5年(1755)には、小杉一笑追善句会が成学寺で行われていたと思い込まれていたことが窺えます。)



(成学寺)


“芭蕉に帰れ”麦水②
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11362058329.html




(本長寺)


本長寺の芭蕉の句碑は、大正4年4月の建立で比較的新しいものですが、戸室石に書かれた碑文は痛みが激しく読めなくなり、昭和57年1月、地元の俳人で画家でもあった今は亡き”馬酔木”の同人黒田桜の園の書により改修されたものです。



(犀川大橋詰から蛤坂)

(幕末の妙慶寺門前)

(常徳寺横の駐車場は「望月」跡

(望月跡から犀川を望む)


蛤坂は華やいだ賑わいのある町だったようです。古くは宝暦年間(1751~1764)には、真長寺境内には、娯楽施設の揚弓場が有ったことが伝えられています。大正期から昭和期には、現在の常徳寺隣の駐車場のところに土建業で名士の辰村米吉氏が経営する「望月」と言う料亭があり、地下2階の浴場があり、ダンスホールやビリアードなどの施設が備えられたモダンな料亭だったと伝えられています。犀星に伴われ芥川龍之介も訪れたと言われています。


(対岸より山錦楼)


(料亭と言えば、町には木造3階建て一部4階建ての「山錦楼」の建物が有ります。金沢市指定保存建造物で、今も、加賀の匠の技が残る大正末期の建物は、改修工事に際して、昭和期の増築分は全て撤去したというもので、建物は大正期の姿を残し、縁側からの優れた眺望が有名です。)



(蛤坂側の山錦楼)


参考文献:「金澤・野町の四00年」金澤・野町の四00年刊行委員会、平成12年1月発行ほか


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