【高岡→金沢城玉泉丸→旧六斗林】
今年3月、金沢城の玉泉院丸庭園の再現で、多くの人に知れるようになった玉泉院は、前田家2代藩主利長公の正室でした。天正2年(1574)織田信長の4女(5女とも?)として生まれた永姫です。天正9年(1581)2月、越前府中城の前田利長公に輿入れします。その年の8月、利長公は父前田利家公が能登一国を拝領すると、その跡の府中城を与えられ、20歳で大名となり、永姫も8歳で御前様となります。
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(今の玉泉院丸(西の丸))
天正10年(1582)5月、信長から京都見物に招待され、利長公夫婦は安土から京都に赴く途中、本能寺の変の報を受け、利長公は、永姫を尾張荒子に送り、自身は安土に帰り、蒲生氏郷や織田信雄に弔い合戦を呼びかけ、既に光秀は去った後で、そのまま本城に引き返したといいます。
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(前田家の梅鉢紋)
永姫は8歳で結婚し、9歳で父を失い、夫利長公は賤ヶ岳の戦いに従軍し敗走、秀吉と和議を結び、秀吉軍の先鋒となり北庄城攻撃、その後、利長公は松任4万石に配され加賀の大名になりますが、戦は絶えず、小牧長久手の戦いで、夫は秀吉方に立ち、天正13年(1585)越中婦負・射水・礪波3郡を拝領し、守山城に移るまでの2~3年、幼い永姫は夫の度々の出陣など、不安な日々を送ったものと思われます。
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(賤ヶ岳の戦場辺り)
永姫は、利長公の実子を設けることができず、なんとか利長公の子が得られるように、侍女を多数召抱え、懇切に世話しますが、世継ぎが得られず、徐々に夫婦仲も疎遠になったと伝えられています。しかし、永姫は利長公の妹豪の娘、長連龍の娘、織田信雄の娘や利長公の弟利政など縁者の子を養子に迎えて養育したといわれています。
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(高岡城跡)
その後も前田家の命運がかかった戦争に心を痛めたものと思われますが、戦後は、利常公を養子に迎え、その利常公が徳川秀忠の次女球姫を夫人に迎え、嗣子を得て安堵したと思われます。
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(高岡の利長公の菩提寺瑞龍寺)
慶長10年(1605)。利長公が隠居して富山城に移り、永姫も同行したと思われます。利長公は、慶長16年(1611)、病気が重態化し、その後、闘病生活の末、慶長19年(1614)5月20日に亡くなります。永姫は剃髪して玉泉院となり、金沢に移り西の丸(玉泉院丸)に住居を構え、元和3年(1617)に、利常公に願い出て、浄禅寺12代住職其阿南水を別当に、高岡から浄禅寺を金沢六斗林に勧請し、その横に天満天神堂を建立したのが、今の泉野菅原神社です。
(浄禅寺は、金沢古蹟志では「浄善寺」)
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(利常公)
玉泉院は、元和9年(1623)2月24日金沢城で亡くなります。享年50歳。戒名は「玉泉院殿松巌永壽大姉」で、墓所は野田山にある前田家墓所の最も高いところに設けられています。
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(安政期の玉泉寺周辺図)
≪玉泉寺≫
光顕山玉泉寺は、利長公が崇敬していた越中新川郡新庄村に創建された時宗浄禅寺です。本尊は阿弥陀如来。慶長14年(1609)に高岡へ移転され、元和3年(1617)金沢・六斗林へ、玉泉院亡くなれた6年後、寛永6年(1629)に玉泉寺と改称されましたが、寛永9年(1632)に神殿が焼失し、前田利常公により再建されたと伝えられています。
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(幕末の玉泉寺と天神天満宮の模写)
明治2年(1869)神仏分離により神社(天満天神堂)を分離し、天神さんは一時卯辰神社(現卯辰三社の天満宮)に合祀しますが、明治4年(1871)沼田町の安立寺から出火(六斗焼け、民家等271軒消失)で玉泉寺が火災にあい、翌年、藩政期の反対側の現在地に泉野菅原神社が建てられます。
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(今の泉野菅原神社)
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(幕末の周辺略図)
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(今の玉泉寺辺り)
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(六斗の広見・左が今の玉泉寺辺り)
延宝期には約6,000坪もあった玉泉寺の広大な敷地は、藩政期を通し、玉泉寺、天満天神堂、そして門前町も建ち並び明治に引き継がれますが、幾多の変遷の末、明治24年(1891)に野町小学校が建てられ、統廃合や火災を乗り越えてきましたが、平成26年(2014)4月、住民の減少などから弥生小学校と合併し、金沢市立泉小学校が開校されました。現在は、新校舎完成まで泉小学校の仮校舎になっています。
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(泉小学校仮校舎)
(泉野菅原神社は、平成12年(2000)の火災で本殿が焼け、平成24年(2012)3月に地元有志の尽力で再興されました。平成26年(2014)12月には玉泉寺本堂修理完成。)
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(今の玉泉寺)
参考資料:金沢学院大学文学部公開講座、講演要旨「「玉泉院の生涯」見瀬和雄教授〉」平成25年6月29日・「稿本金沢市史」・「金澤・野町の四00年」金澤野町の四00年刊行委員会、平成12
年1月発行ほか