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Channel: 市民が見つける金沢再発見
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玉泉寺とその周辺①(六斗の広見)

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【旧泉寺町・旧六斗林】
光顕山玉泉寺は、寛文5年(1665)には、藩の政策として金沢町整備により、金沢町から移住させた町人の替地として与えるため、玉泉寺も寺領、約5,600坪の一部、約331坪を玉泉寺上地として召上げ東上地町約250坪を東門前町(外門前)として西上地町約85坪を西門前町(内門前)としました。


(六斗の広見)

(明治4年(1871)玉泉寺東門前は、近隣の月照寺門前、舜昌寺門前、遍照寺(4年の六斗の大火転出)門前で六斗林3丁目として新たな町名に改定されます。なお、玉泉寺西門前(内門前)は、玉泉寺内門前、三間道、全昌寺門前、少林寺門前、千手院門前として三間道と町名を改正します。)



(幕末の玉泉寺、堀が巡らされています)

(延宝金沢図、広見は約230坪、堀は沼田川より)


≪六斗の広見と巡見使≫
金沢の広見は、藩政期に設けられたもので、街路の一部が広くなっている部分をいい、伏兵を配置するための戦略的計画や、荷車などの回転揚所、火消しの結集地点、藩の高札や辻説法の場所などとして利用されていたもので、戦災に遭わなかった金沢では今も多く残っています。



(六斗林の石標)


(改修中の玉泉寺2014・10)


玉泉寺門前の「六斗の広見」は藩政期、幕府の巡見使の出迎え、見送り等のセレモニーが行われる場所にもなりました。その日は周囲の道は閉鎖され、藩の重臣たちが出迎えや見送りをしています。寛政元年(1789)の文書によると、御用番、年寄中、御家老が幕府巡見使を出迎えています。玉泉寺前から北陸道に出た巡見使一行は野町・犀川神明宮前・川南町・片町・石浦町・南町と北陸道の経路を取って城下に入ったとあります。


(今の泉野菅原神社の玉垣)


(巡見使とは、将軍の代替わりごとに諸国の政情を視察した幕府の上使で、寛文7年(1667)の幕府の制によれば、責任者を若年寄としてその指揮監督にあたり、若年寄の支配下にあった御使番1名を正使、同じく御小姓番と御書院番からそれぞれ1名ずつを副使として派遣しました。彼らは従者を連れて管轄する諸国の監察を行い、諸藩及び公儀御料の政治の実態を「美政・中美政・中悪政・悪政」などと格付けしたほか、キリスト教禁止令などの幕府法令の実施状況、領内の物価や相場、船舶や海防についてなどを調査。)




(六斗の広見から国泰寺方向)


巡見使の金沢での宿泊は富裕町人の家に分宿しています。宝永7年(1710)記録では、御使番が川南町米屋治右衛門宅に、御小姓頭が石浦町泉屋与四兵衛宅に、御書院番が石浦町坂尻屋孫左衛門宅を宿としています。金沢において巡見使が町家に宿泊するのは天和元年(1681)から始まったそうです。




(今の玉泉寺)

また、巡見使が通行に際しては、衣屋、厨子職、乗物職、仏具師、表具師、生花井作花師、線香屋、足袋商売などは店を仕舞い、女子供は通行を差し止めになったそうです。巡見使の往来に際しては、通常の町中の様子とは打って変わって、店々の看板類や店頭の品物陳列を規制し、大通りと路地の遮蔽を行うなど、巡見使と町の人々との接点を遮断し、不必要なものを見せることなく、速やかな巡見使の通過に気を配ったそうです。



(六斗の広見から三間道方向)


参考文献:「金澤・野町の四00年」金澤野町の四00年刊行委員会、平成12年1月発行・≪金沢城下南部の歴史」新保望著、泉野地区歴史研究会・「石川県の地名」1991,9,平凡社ほか


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