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玉泉寺とその周辺②(三間道)

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【旧泉寺町・旧三間道】
前田利常公により再建された玉泉寺は、高岡の瑞龍寺や羽咋の妙成寺など、国宝や重要文化財建築を多数建立した加賀藩の御大工山上善右衛門による大伽藍であったと伝えられています。明治4年(1871)の六斗焼けで焼失しますが、廃仏棄釈の風潮もあり、そればかりとは言えませんが再建されず、現在は、最近改修した小さなお堂と地蔵堂そして苔むした墓石が昔を語ってくれます。



(今の泉野菅原神社前から三間道通り)


(改修された今の玉泉寺)

(地蔵堂)


藩政期、織田信長公を祀る事が禁じられていたのを前田家では密かに利家公の祖先といわれる菅原道真公の天神堂に織田信長公を合祀されたとされています。泉野菅原神社(天満天神堂)には、信長の肖像画や「木瓜」の家紋入りの槍の柄が奉納されていたと聞きます。



(織田信長公の掛軸)

(家紋入りの槍の柄)


(泉野菅原神社は、平成12年(2000)に焼失し、その後、平成24年(2012)に氏子らの浄財で社殿が新築され、一時、所在不明と言われていた信長公の肖像画、そして「木瓜」の家紋入りの槍の柄も奉納され、平成24年(2012)9月23日には、氏子が集い明治期より続いていた「信長公祭」の復活祭が行われました。)


鼻祖?山上善右衛門
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10730702062.html



≪三間道≫
藩政期の通称三間道は、北国街道につながる六斗の広見から全昌寺門前まで、約1町程の三間道通りの北側を三間道と呼んだそうです。明治4年(1872)町名改正で、その三間道と全昌寺門前、少林寺門前、千手院門前、玉泉寺門前(内門前39軒)の113軒が正式の町名「三間道」となります。



(全昌寺)

(少林寺)

(千手院)


(藩政期の玉泉寺内門前は、玉泉寺の寺内で堀が巡らされていて入口に惣門が建てられ、寺内の体裁であったが、明治の廃藩で、諸寺の門前地が廃止され惣門も取り除かれたそうです。)



(今の三間道の通り、六斗の広見側より)


当時の三間道通りは、玉泉寺前より野町の往来まで、幕府巡見使の通行路で巡見使道の一部であり玉泉院の位牌所として建てられた玉泉寺の参道であることから、加賀藩の威信にかけて、小街道に準ずる道路幅員に造られたものと思われます。そのことから早い時期より「三間道通り」と言われていたものと思われます。



(道路中程にある旧三間道の石標)


(小街道は、幕府の定書では、大街道(五街道)道幅六間に対し、三間の幅員だったそうですが、北陸道の一部野町通りは小街道で、それでも幅員が三間以下のところもあったらしく、三間道通りは、脇街道ですが、幅員は、ほぼ野町通りに近いものだったといいます。)



(野町側より、三間道通り、HIPの向かいが玉泉寺内門前)


前にも書きました元禄13年(1700)に妙慶寺坂の崩壊で、妙慶寺坂(蛤坂)が通行禁止になっていましたが、復旧されるまでの33年間、野田往還や鶴来街道からの物資の輸送には、広い三間道通りが牛馬での通行に最も近い迂回路として利用されています。


(古い資料には、三軒道と書かれたものがあるといいますが、それによると町内の北側に三軒の家があったことから名付けられたものと言われているそうです。現在のところ確たる確証がないところから、単なる当て字であったのではというのが定説のようです。)


(玉泉寺の石垣・今の泉小学校)

(今、泉小学校裏の玉泉寺の堀跡)


付けたり:
現在は、影も形もありませんが、藩政期の地図にある山伏円教寺は、卯辰山に有った庚申堂を元和2年(1616)ここに移転して山伏円教寺が奉仕したと言われていていますが、明治元年(1868)神仏分離令で円教寺は復飾し堀多壽美と改め、庚申堂を廃したと言います。


(全昌寺隣の鳥居が円教寺)

参考文献:「金澤・野町の四〇〇年」金澤野町の四〇〇年刊行委員会、平成12年1月発行ほか


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