【六斗の広見】
宝暦9年(1759)4月10日午後3時(申上刻)頃、藩政期最大の大火が起きます。出火元は、六斗の広見から数10間先の鶴来街道沿い西側、玉龍寺の塔頭舜昌寺でした。火災は南西風に炎はあおられ犀川を越えて城下各地に飛び火し、さらに浅野川も越えても燃え続け、金沢城をはじめ城下の大部分の1万500戸以上を焼け尽くし、翌11日午前10時頃に鎮火したといいます。
(左側に玉龍寺(藩政期舜昌寺)月照寺・右側は藩政期の玉泉寺東門前)
舜昌寺は、宝暦の大火のあと断絶します。後に玉龍寺の隠居所として小庵が造られますが、明治4年の火災で焼失し今はありません。
(六斗の広見から六斗林へ)
(玉龍寺)
(月照寺)
「金沢大火焼失域図(宝暦9年、横山隆昭家蔵)」によると、六斗林で被害にあったのは火元舜昌寺の隣、月照寺まで、向側の玉泉寺の東門前で、広見沿いでは国泰寺東隣の遍照寺が焼失、野田寺町では、笹下町から焼入り、極楽寺から大円寺まで、出火から半刻(約1時間)ほどで向側の妙典寺までの両側が焼失します。
(宝勝寺辺り)
火災を免れたのは、蛤坂から泉寺町の東側薬師寺から国泰寺まで、西側は妙慶寺から香林寺、そして玉泉寺です。焼け残っ要因は、風向きと火除地としての「六斗の広見」効果によるものと思われます。
金沢大火焼失域図(横山隆昭家蔵)を模写
飛び火は犀川を越え、十三間町の上町に延焼し、以後火は四方に飛び火して新竪町、百姓町、川除町、水溜町を焼き、柿木畠の侍屋敷から堂形をへて金沢城にうつり、城の大半を焼失して石引町、材木町に抜け、松山寺、雲龍寺、宝円寺を焼き、浅野川をへて御歩町、観音町、観音院、愛宕町、森下町、馬場の一部、金屋町、高道町光覚寺、大衆免を一なめし、一方材木町から尾張町、彦三、博労町をも焼いて城下の7割を焼き尽くします。
被害状況は、「加州金沢城中焼失の覚」によると10,508戸。詳細は以下の通りで、侍と関係する家4150軒・寺社99軒・町家4775軒・寺社門前の百姓屋1506軒、毀家23軒で外に土蔵283棟、橋梁29、番所27、木戸61の焼失があり、焼死者26人という空前の大火でした。
(藩では応急策として幕府から5万両を借入れて一時しのぎをしますが、当時の財政責任者の前田直躬は収集の見込みはないと辞職し、年寄3人がその後を受け、家臣には借知を、領民には冥加金を割り当ています。)
当時、城下では大火は加賀騒動で処刑された大槻伝蔵等の祟りだとささやかれたといいます。6代藩主前田吉徳公の三男で、母は吉徳公の側室真如院の前田利和(勢之佐)の幽霊の仕業だというデマが飛びだしたとも伝えられています。
(安政年間の野町、寺町図)
金沢では藩政期から明治初期まで、数多くの火災に見舞われます。寛永8年(1631)4月14日1000軒の法船寺焼け以降、寛永12年(1635)5月9日10000軒、明治4年(1871)3月23日271軒まで、240年間で45回の大火の記録があります。元禄3年(1690)には、3月16日(900軒)、17日(6639軒)と2日大量に焼けています。金沢では旧暦3~4月に大火が多かったのは、北陸地方特有のフェーン現象に起因するものです。
(日本海で発達した低気圧が通過するときフェ-ン現象が起こります。フェーン現象は時には非常に乾燥した強い突風になります。一旦火災が起こると消火しにくく、広がりやすいため広範囲にわたる深刻な被害を招きます。)
参考資料:「加賀藩史料 第8編」日置謙編・「金沢市史」18 絵図 地図・「石川県災異誌」により作られた”金沢大火年表“など