【野町2丁目】
にし茶屋街の前を通ると、昔、片町で「ニシロー」に行きたいのですが・・・と、当時のアンノン族といわれた旅する若い女性に聞かれ、犀川大橋を渡れば直ぐなのに、耳慣れない言葉だったので咄嗟に「知らない」と言ったのを思いだします。当時は、今の「にし茶屋街」の石標のところに「西廊」と書かれた大きな看板があり「にし」とか「にしのくるわ」と言っていたような気がします。当時の私には「石坂」は知っていても「にし」と言われても・・・多分、応えられなかったでしょう。
(石坂界隈は、明治の中頃に武蔵ヶ辻の裏辺りから北の新地が移動して来て、上町(うわまち)と下店が連なり、明治、大正、そして昭和30年頃まで賑わったと聞きますが、昭和33年4月の売防法完全施行後は上町だけが残り、その頃、今の茶屋街の裏通りが焼け、下店辺りは10数年を経ても整備が進まず、行ったこともない我々一般市民は上町(うわまち)も下店も北も含めて「石坂」と呼び、訳知りの年寄りから味噌も糞も一緒にするなと叱られていました。)
にし茶屋街の開業は、「ひがし茶屋街」と同じく、文政3年(1820)に金沢町奉行山崎賴母等が、黙認のかたちである遊里はむしろ許可して厳重に監督した方が却って弊害がないのではと、藩主斉広公の許可を得たもので、東の卯辰茶屋町に対し西の石坂新地として、卯辰茶屋町より1ヶ月早い9月11日に営業を開始しています。
(今のにし茶屋街の町並み)
(余談ですが、寛保(1741~4)や天明(1781~9)の頃の金沢には出合宿というもぐりの遊女屋が軒を並べ、藩も禁止のお触れを出し盗賊改方が摘発にあたりますが、一時的な効果でしかなく、禁令に対して厳罰を課しますが、違反は後を断たなかったと伝えられています。また、町人だけに留まらず武士も藩の取り締まりに恐れながらも密かに遊んでいたといいます。)
文化14年(1817)正月、町奉行の山崎頼母は、公認により隠れて営まれる出合宿の取締りになり、町人が他国に行って遊里や芝居に金を遣うことの防止にもなること、そして公認にすることで2、3百貫目の藩収に期待が出来ることを上げていますが、この提案は年寄から「遊里等之儀ハ御定をも誹儀」するとして一時拒絶されています。
しかし、文政元年(1818)11月には芝居が公認され、その翌々年の文政3年(1820)4月には茶屋町が公認になります。風俗を乱すとする年寄・家老層の根強い反対もありましたが、文政元年(1818)から、藩主斉広公の主導で進められていた「御国民成立」を標榜する藩政改革が「近年町方末々軽き者共困窮におよび候に付、軽き者共渡世の為」と、町人の困窮を助ける為にという芝居や茶屋町の公認の趣旨が「御国民成立」の政策と合致すると藩主斉広公が判断したということになり認められます。
そして、手を焼いていた武士の茶屋町への立ち入りについて、直臣は言うまでもなく、「帯刀之者、又家中(またもの)家来末々まで堅くまかり越しまじき候」と武士及び医師など苗字帯刀を許された者すべての者の入場を禁じています。
(つづく)
参考文献:長山直治著「金沢茶屋町に武士は登楼できたか」ほか