Quantcast
Channel: 市民が見つける金沢再発見
Viewing all articles
Browse latest Browse all 876

にし茶屋街②

$
0
0

【野町2丁目】
前回に引き続き帯刀之者の茶屋町への立ち入り規制です。艶っぽい話ではなく、野暮で堅い話になりますが、茶屋町では、帯刀之者だけではなく武士の女性やその女奉公人の立ち入りも禁止されています。茶屋町が公認され出合宿が禁止されることで、当然密会に使われていた出合宿の機能が茶屋町に移ると考えたのか、そのような場所への武家の女性やその奉公人の立ち入りも禁止になったものと思われます。


(今、昔のことを知る手がかりがある獅子舞飾り)

それまで武士は出合宿に相当数が出入りしていたこともあり、公認された茶屋町が禁止されたからと言ってすんなりそれの従うとは考えにくく、周囲を囲い、2、3ヶ所の入り口に木戸が設けられ木戸番が置かれ、役人が見廻り、紛らわしい者が入らないようにしてありますが、町人の振舞いを受け出入りする武士もあり、かなりの武士が罰せられています。





(お茶屋の座敷、現代のもの)


文政3年(1820)10月の藩のお達しには、十村、新田裁許、山廻役、御旅屋守にも心得違いのないよう触れられ、茶屋町への立ち入りを禁じていたようです。文政12年(1829)11月には華美になってきているとして質素を心がけるよう触れられ、さらに武士の子弟などや僧侶、医師の風体のものの立ち入りの禁止が改めて厳達されています。



(昔のにし茶屋町・落雁諸江屋さんの掛け紙より)


(当時の藩当局は、財政の困窮から初めて藩が運営する頼母子のような仕法調達銀を命じ、藩士には改めて質素、倹約を旨とするよう風紀の粛正を命じていますが、違反して処罰される藩士が続出します。文政6年(1823)末になり、若い藩主斉泰公を支える隠居の斉広公は風俗の教諭方主付を任命し風俗の教諭体制を強化しますが、翌7年(1824)7月の斉広公が急死してしまいます。)



(財政難の加賀藩の金沢城のなまこ壁)


藩の財政は益々深刻化し、幕府より先に「天保の改革」が行われ、天保元年(1830)には財政の窮迫から藩士に5年間の増借知を、町人には御用銀を命じています。そんな中で、参勤で江戸在府の藩主斉泰公の直接の指示で茶屋町の廃止が決まり、天保2年(1831)8月に両茶屋町の廃止が布達されています。



(今のにし茶屋街)


その茶屋町廃止の直接の原因は、藩士の子弟の茶屋町への出入りが露見し、捕らえて調べると、にし(石坂町)の業者の手引きで茶屋遊びをし、そのために偽手形を使っていたことに藩主斉泰公は強いショック受けたことによるものと思われますが、もともと藩主は、再三、藩士の子弟などに宿をしないよう触れていたにも関わらず、事件や違反が相次ぎ、さらに茶屋町公認は風俗の害があると主張する年寄、家老の根強い声もあり、その事件の本格的な取り調べが行われる前に茶屋町の廃止を決意して国許に指示したといいます。



(にし茶屋町の歴史が刻まれた石碑)


(事件の顛末は、御馬廻組寺西勘三郎嫡子東三郎他2人の武士の子弟と表方坊主2人の5人が石坂町の根布屋長右衛門の父庄兵衛の手引きで西の茶屋町(石坂町)に遊び、そこに偽手形が絡んだと言うもので、聞くところによると、東三郎等は能登島に流されたと伝え聞いています。)



(今のにしの検番、芸妓名が書かれた団扇)


茶屋町の廃止については、茶屋町の当事者が書いた「綿津屋政右衛門自記」に「たいとう(帯方)の御かた(方)を、きゃくじん(客人)につかまつり候つみ(罪)にて、両木戸御取はらい(払い)しょうばい(商売)御さしとめに(差し止め)相なり候」とあり“取ってはいけない武士を客人にした罪により廃止された”と書かれています。


(明治の1年前ひがしの絵図の模写)


(そして36年後、明治の1年前の慶応3年(1867)8月、藩政改革の機運に乗じて再び公許になります。当時の絵図には、刀を預けた武士や頭巾を被った坊主らしき姿が見えます。)

昔々の話で、堅い話になってしまってすみません。


(つづく)


参考文献:長山直治著「金沢茶屋町に武士は登楼できたか」ほか


Viewing all articles
Browse latest Browse all 876

Trending Articles