【野町広小路】
「宝池山大蓮寺」は浄土宗の寺院で、開山は天正11年(1583)に前田利家公の金沢入城に伴って、荒子七人衆の一人小塚淡路守秀正が七尾の西光寺の衍蓮社広誉怒白上人を招請して創建したのが始まりといわれています。
創建時は御厩町(現金沢駅前都ホテル裏辺り)に在り、その後、御厩町が前田家の御用地になり、今の泉野図書館辺りに50間四方の替え地を与えられるがそれを断り、現在地を拝領します。山号の宝池山は、寺は前の道から見ると段丘のため寺地が下がってみることから、それを池にたとえ、阿弥陀仏の教えを宝のごとく満たす池を表したのだと伝えられています。
(裏門)
草創期の大蓮寺は、前出の小塚淡路守秀正が大檀越(おおだんな)として後ろ盾となり隆盛します。小塚家は、江戸初期の加賀藩成立時には9,000石を領し、加賀八家に並び立つ家柄でした。利家公、利長公に仕え、利長公の死の際し、前田家一門・家臣団合わせて20名に遺言状が送られた1人に数えられ、大坂の陣では金沢城の城代を努めるほど前田家の信頼と実力を重ねていましたが、子息の討死、早逝が重なり、小塚家の主家・支家が全て断絶してしまいます。
(石野家の墓石)
その後、当初から外護していた豊臣家所縁の人持組1,500石の石野家が替わって大檀越((おおだんな)となり、大蓮寺を支えて現代に続いています。豪姫の供養塔の背面に大きな墓碑が多くありますが、石野家の歴代の墓です。
(大檀越(おおだんな)は、大口の檀家が檀越で大檀越は檀家の筆頭総代に当たります。人持
組は加賀藩の職制で、藩主を筆頭に、家老の加賀八家、その下部に位置し1,000石~14,000石の内68家(時代よる)が人持組といわれました。それから石野家の子孫の方は私の中学校時代国語教師で、新しい墓誌にお名前が刻されていました。)
(石野家の墓誌)
大蓮寺は、初代前田利家公の4女宇喜多秀家の内室豪姫の菩提寺です。豪姫は関ヶ原の合戦後、兄の前田利長公を頼って金沢・西丁に移り住み、化粧料1500石を与えられます。当時の金沢はキリシタン大名として名高い高山右近が客将として住み、日本中でも有数のキリシタン信者の町金沢では、一族のキリシタン宇喜多一閑も住み、豪姫も家臣と共に洗礼を受けていたのではと伝えられています。
また、大蓮寺は、野田山前田家の利長公の墓所の近く、少し離れた所の高い位置にある豪姫の五輪塔をお守りしています。前田家では、藩主関係者の多くは土饅頭型の古墳形式で、管理は桃雲寺が行っています。
大蓮寺本堂裏手の墓地中央に豪姫右手に宇喜多秀家の五輪塔があります。平成6年(1994)、豪姫360回忌に合わせて、野田山墓所の豪姫と八丈島の宇喜多秀家の墓所から分骨を受けて建てられたものです。約400年ぶりに金沢と八丈島に生き別れとなった豪姫と秀家の夫妻が、この地で再会し仲良く肩を並べてこの地に佇んでいます。
(大蓮寺墓地の供養塔、左豪姫、右秀家)
豪姫は、前田利家公と正室まつの四女で天正2年(1574)に生まれますが、生後間もなく利家公と仲が良かった豊臣秀吉の養女となり秀吉は溺愛し「もし豪が男であれば関白にしたものを」と言ったといわれています。15歳の時、秀吉と信頼が厚かった岡山城主宇喜多秀家に嫁ぎます。豪姫の人生を大きく変えたのが天下分け目の関ヶ原の戦い。秀家は、秀吉への恩義から関ヶ原の戦いで西軍に加わり、徳川家康率いる東軍に敗れます。
その結果、秀家に課されたのは、八丈島への流刑。宇喜多家は改易となり、二人の息子と数人の家来とともに秀家は八丈島へ流され、豪姫は、二人の娘とともに兄利長公を頼り加賀前田家に身を寄せ、生き別れた秀家と二人の息子を思いながら、出来る限りを尽くし、寛永11年(1634)、金沢城鶴の丸で61歳の生涯を閉じます。
材木町善福寺と豪姫・富利姫伝説
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10745422538.html
一方、関が原敗戦後の秀家は、薩摩島津氏の下で3年蟄居(ちっきょ)します。島津氏の助命嘆願で死罪を免れ、慶長11年(1606)に八丈島へ流罪となります。
(大蓮寺の高島住職のお話によると、前田利常公の正室球姫が徳川家康の内孫であることから、秀家が徳川に謝罪し、十万石の大名として加賀藩に入れば島流しは免除されるという話もあったそうですが、それでも島流しを選んだ秀家の五大老としての矜恃を感じさせます。)
(つづく)
参考資料:大蓮寺のパンフレット及び高島住職のお話等