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宝の池の大きな蓮②豪姫と加賀藩

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【野町広小路】
大蓮寺は、正式名称は宝池山功徳院大蓮寺で前回も書きましたが豪姫“戒名樹正院殿命室寿彰大禅定尼”の位牌所で菩提寺として知られています。現在、野田山にある豪姫の五輪塔の墓を守り、豪姫の位牌と念持仏である聖観音を寺宝として安置しています。また、61歳で金沢城鶴の丸でお亡くなりになられた豪姫の葬儀も、旧宇喜多家の家臣中村刑部や一色主膳ら多くの有縁によって執り行われたといいます。



(野町の道路沿いにある大蓮寺)


(本堂の格天井には、宇喜多家の家紋「児」を中心に中村家、一色家など、豪姫に従った家臣の家紋がまわりをとりまいていて、永遠に主を守り続けているようです。)



(宇喜多家の家紋を中心に描かれた格天井)

(宇喜多家の家紋)


加賀藩前田家3代利常公は、姉に当たる豪姫が宇喜多秀家の正室だったことから、配流となった夫の身を案じて悲しむ豪姫を哀れに思い幕府と交渉し、1年おきに八丈島に白米70俵と35両に物資を送ることが許されます。その後、豪姫亡き後も250年間前田家は、八丈島の宇喜多家へ援助を絶やすことなく続けられたと伝えられています。


(豪姫の肖像画の写真・額の部分が色落ちしています)

豪姫は、日々、金沢から八丈島に向けて、聖観音像に家族の無事を祈ったといます。また、絵師に描かせた自分の肖像画を八丈島の秀家と息子たちのもとへ送ります。その肖像画を写した写真が拡大され、今、大蓮寺にありますが、よく見ると額の部分が色落ちしています。どうも、息子たちが母を思い、毎日々々、額の部分を手でさすったために色が落ちたのだと聞きます。


(大蓮寺の本堂)

大蓮寺の髙島住職によると、親子の別れは豪姫だけでなく、息子秀高,秀継に付き添って八丈島に渡った乳母「あい」は、腹をいためた幼子2人を金沢に残し、悲しい別れをしています。子供たちは母恋しさから、僧になり島に渡ろうと試み直訴に及びますが、「沙汰を待て」という幕府の命も虚しく、結局、行くことはできなかったと伝えられています。また、加賀藩からは医師も派遣していたそうです。



(大蓮寺の格天井)


ほか、伝えられるところによると、秀家(島では剃髪して久福)は加賀から送られてくるお米を独り占めすることなく、八丈島の島民たちに分け与えたといいます。そのためか、今も八丈島から大蓮寺を訪れて、ご先祖に代わって豪姫にお礼を述べる方もいるそうです。




(中村家、一色家の大蓮寺の墓地)


また、豪姫と秀家のお位牌とともに、豪姫が秀家と2人の息子の無事を祈った念持仏の「聖観音」があります。この「聖観音」のお厨子の鍵が「舟型鍵」といい「大悲船」と銘が入っているそうですが、延宝4年(1676)豪姫没後から約40年後家臣たちが姫の果たせなかった思いを船に表して作ったものだそうです。



(奥に写っているのが豪姫が毎日祈っていた聖観音像。手前右の位牌が豪姫の位牌です。左手前の位牌は大蓮寺の先代住職が豪姫1人ではかわいそうだということで新しく作った秀家の位牌です。)


≪明治の宇喜多(浮田)家≫
明治2年(1869年)2月、新政府は宇喜多家の流罪を免じます。所縁の前田家に宇喜多孫九郎一族の扶助を命じ、翌3年には宇喜多家(浮田家)子孫の8家75人が八丈島を離れ、前田家に身を寄せています。明治6年(1873)に明治政府は宇喜多家に、旧加賀藩江戸下屋敷平尾邸のうち2万坪の提供しこの地に帰農することになります。



(大蓮寺の秀家と豪姫の供養塔)


平尾邸跡は、現在の板橋四丁目1番地で、宇喜多秀家の廟所(びょうしょ)を造りますが、八丈島から板橋へ来た八丈島の宇喜多家の一族の多くが生活環境の変化になじめず八丈島に帰島したといいます。


(廟所に築かれた宇喜多秀家供養塔は、幾度かの移転を経て、現在は板橋四丁目の東光寺境内に設置され、宇喜多同族会によって祀られています。この塔は前田家・宇喜多(浮田)家の歴史と、両家の板橋区との関わりを物語る貴重な遺産として、平成10年度に板橋区の登録有形文化財になりました。)




(大蓮寺の本堂)


参考資料:大蓮寺のパンフレット及び高島住職のお話等


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