Quantcast
Channel: 市民が見つける金沢再発見
Viewing all articles
Browse latest Browse all 876

にし・吉米楼①西茶屋資料館

$
0
0

【野町2丁目】
にし茶屋街にある西茶屋資料館は、昔の「西の廓」の上町の真ん中にあります。隣の駐車場は、かって町の鎮守菅原神社、その並びに今も残る大正のモダン建築の検番があります。にし茶屋街は、「ひがし茶屋街」と同じく文政年間に藩命で開業し、一時廃業するものの慶応3年に再開されます。明治30年代には、町中の栄町辺りにあった「北の廓」が隣地(現安閑寺西の野田専光寺線の真ん中)に移転し、明治、大正、昭和、この界隈は上町と下店が立ち並び市内で一番繁盛した歓楽街でした。昭和30年代の売防法施行以後、上町だけが「にし茶屋街」として当時の風情を伝えています。



(今も残るにし茶屋街の検番(事務所)大正のモダン建築)


西茶屋資料館は、昔、お茶屋吉米楼の跡に建てられたものです。その吉米楼は、大正時代20歳の若さで才能を開花させ、アッという間に世間から見放され孤独の中で、精神病院で亡くなった作家島田清次郎が幼年時代母と暮らした祖父が経営するお茶屋でした。



(吉米楼跡の庭・この辺りに少年時代清次郎が住む)


清次郎の祖父八郎は、母みつの実家の父で、家は藩政期、松任の在の名の知れた農家でした。明治になると戸長を命ぜられています。戸長という公職にあった八郎は、度々町に出る機会も多くなり、松任の芸妓米吉と馴染みになり、やがて八郎は屋敷田畑を売り払い、米吉と金沢に出てお茶屋を始めます。




(今のにし茶屋街)

投機心の強い八郎が金沢に出て一旗挙げようという野心と、士族出の芸妓米吉のプライドと事業欲が一致したのでしょうか、「西の廓」の一等地のお茶屋を買い、米吉の名前を逆にした吉米楼を開店します。島田清次郎は物ごころついたときには、この吉米楼の奥の土蔵の2階に母子で住んでいました。



(今のにし茶屋街)


吉米楼は、八郎と米吉二人の息の合った経営で当初から軌道にのり、市の高級官吏、日露戦争の勝利で意気が上がる九師団の将校、そして地元の政治家、実業家など良い客筋をつかみ繁盛します。やがて米吉の松任時代は妹芸妓「お琴」が娘「きく」をつれて住み、「お琴」が芸妓に出る頃からおかしくなります。八郎は「お琴」に手をつけ、白痴の八五郎を生ませ、そのため娘「きく」も入籍し、戸籍上は清次郎の叔母になり、八郎と「お琴」に裏切られた米吉は嫉妬のあまり狂い死にし、やがて吉米楼は没落します。


(お茶屋の座敷・西茶屋資料館の2階)

嫉妬の炎はそれだけで留まらなかったらしい、吉米楼の没落は、八郎が捨てた妻の呪いだという話もあります。八郎の妻は、白昼、吉米楼に押しかけてきて、屋根に仏花を投げ上げたといいます。金沢には昔から呪いを掛けるとき、相手の家の屋根へ仏花を投げ上げる風習があったと伝えられているそうです。



(吉米楼跡の2階・西茶屋資料館)


(西茶屋資料館は、島田清次郎の小説「地上」の舞台となった場所に、大正時代の吉米楼の造りを再現したものです。平成8年(1996)4月に開館。2階建て構造の日本家屋で、1階は島田清次郎に関する資料が中心で、2階には金屏風や漆塗りの装飾品、扇子や三味線、にし茶屋街の当時の貴重な品などが展示されています。入館無料)


(つづく)


参考文献:「文壇資料城下町金澤」磯村英樹著、昭和54年4月、株式会社講談社発行


Viewing all articles
Browse latest Browse all 876

Trending Articles