【金沢→東京】
杉森久英氏の「天才と狂人の間」によると、金沢商業を退学させられた後、10代の清次郎母子の生活は窮迫が依然続きます。場末の間借りなどを転々とし、母みつの幾らにもならない、仕立物や繕い物で細々と過ごしています。それでも清次郎はどこまでも天才気取りで、昻然と肩を聳やかして町を歩き、みすぼらしい姿で友達を訪ね歩きますが、借金を申し込まれるのではと、行く先々で冷たくあしらわれています。
(弱冠20歳)
その頃の清次郎の心情は当時の日記に、反抗の思いが沸々とたぎっている様子が書かれています。私の心の底に1匹の虫が住まっていて、その虫は奇妙な怪物であると記し、ひとしきり自説を述べ、結びに「清次郎よ、己の高慢心だ!全世界、全人類、全宇宙、生死などあらゆるものを、蹂躙し軽蔑する唯一の復習手段の高慢だ!」と書いています。それらによれば清次郎を創作を駆り立てたものは、見下した連中への復讐という高慢心であり功名心が原動力となっていて、そのことを一番分かっていたのは本人であったことがうかがえます。
大正8年(1919)7月1日。第一次世界大戦の対講和条約が完了し金沢は戦勝ムードで沸いています。そんな翌7月2日の朝刊を見た金沢の人々はアッと驚いたといいます。一面の新潮社の大きな書籍広告は、地元金沢出身の島田清次郎著の「地上」の広告で「・・・前触れもなく文壇に彗星のごとく・・・」だの「・・・燦たる光を放ちつつ現れた。」と、名文で綴られた広告文は弱冠20歳の天才島田清次郎を讃えたものだったといいます。
時代は、第一次世界大戦後、日本も加わった連合国がドイツの軍国主義から民主主義を防衛したことから日本でも民主主義の気運が起こっていたのと歩調を合わせたような小説「地上」は、当時、有名な思想家や社会主義者からの後押しを得て持ち上げられます。国民新聞の徳富蘇峰はわざわざ弱冠20歳の青年に「この小説の主人公が10人もあらば、日本の前途は憂うるに当たらず・・・」と賞賛の手紙を送ったといいます。
金沢では、大正8年(1919)7月5日。出版記念会が兼六園の寄観亭で開かれています。2ヶ月前の兵隊検査でみすぼらしい身なりで帰った時とは見違える出で立ちで、仕立てのいい夏服にボヘミアン・ネクタイ、流行の黒い帽子にしゃれたステッキで現れると、「変われば変わるもんや」と彼の後姿を見て、陰口を聞きあったといいます。
当たりがやわらかくて人をそらさないけれど、芯にひやりとする冷たさを持っている金沢人たちは、彼の意気揚々とした後姿を見て、「馬子にも衣装というけど、ああして立派な格好をして歩いていると、何やら偉そうに見えるなぁ」「なぁ~に、あいつの偉そうなのは昔からだ、よく見ると、せっかくのハイカラな格好も、あんまり板についとらんわい、あんなのを「沐猴ニシテ冠ス」というのだろう」といったそうです。
(沐猴(もっこう)にして冠すとは、外見は立派だが、中身は愚かな者をあざけって言うことば。また、地位にふさわしくない小人物の喩え。)
(はじめに通った金沢二中)
「地上」の支持者は、普通の文壇小説と違って、社会主義者、社会評論家、政論家、思想家の範囲まで広がり、人気は文壇の垣根の中のみならず、広く一般社会人の間まで浸透します。ふだん文学に興味を持たない人の間にも多く読まれたそうで、島田清次郎が時代の寵児といわれる所以です。
(つづく)
参考文献:杉森久英著「天才と狂人の間」 石川近代文学館 平成7年15日発行・文壇資料「城下町金澤」磯村英樹著 講談社 昭和54年9月15日発行