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野田往還と奇談-寺町の妙棺屋小路

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【寺町3丁目・4丁目】
今から400年前には泉野村領がけ上通りといわれた道が、元和2年(1616)藩命により、野田山の藩祖利家公の墓所への参道として整備されたのが今の寺町通りの原型です。野田往還といい、当時としては異例の道幅4間(7m)の大道路だったようで、道筋は藩主の参詣の道ということで、見苦しくないように並木には小松が植えられ、道沿いに馬場が通され野田山の麓には土手も築かれていたといいます。



(寺町通り「野田往還」)


野田往還沿いには、元和年間(1615~24)より防衛上から寺院が移築され、後の延宝(1673~81)金沢図では、今の3丁目辺りから山側にかけ両側に足軽組地が描かれいます。それは利常公の逝去により、小松から引き上げてきた利常公お付の足軽の組地です。藩政期の足軽組地は、昭和30年代の住居表示変更まで、桜畠何番丁と呼ばれていた西側は川手、東側の桜木何ノ小路と呼ばれていたところは山手と呼ばれていたようですが、いずれにしても町奉行支配の「町」ではなく、「丁」と呼ばれる武家支配の足軽組地であることが窺えます。



(今の寺町通り)

(延宝金沢図の寺町通り「野田往還」・当時は小路まで融山院)


史料によると、桜畠山手水組(又兵衛組)桜畠山手玄光院後(又兵衛組)桜畠山手妙法院後(割場弓組)桜畠山手玉泉院後(割場弓組)桜畠川手八番丁(割場弓組)桜畠川手(割場弓組)など、番丁で分かるのは、四番丁、川手八番丁等が見えます。それよると桜畠、桜木は、川手と山手に分かれていたようですが、どちらも桜畠と呼ばれていたことが推測できます。



(今の旧桜畠川手)

(今の旧桜畠山手「桜木七ノ小路」)


(山手後というのは、寺院の後ろ地ということでしょうか、当時の桜畠はかなり広範囲で有った推測できます。)


(安政年間の寺町通り「野田往還」当時は下寺町、上寺町)

藩政後期の野田往還は、安政年間の地図によると、下寺町、上寺町と呼ばれていたようです。下寺町では、寺院の間や門前に商家が見え、上寺町では、往還に面した両側に商家が建ち並んでいたことが窺えます。



(今の寺町3丁目辺り・正面の小路は昔の越中屋小路・左岡作跡・右平野屋)


今日の話は、藩政後期、今の寺町3丁目の八百屋平野屋さんの横小路(昭和の中頃まで桜木七ノ小路)です。当時、小路の南側角に昭和41年頃まで酒屋を営んでいた岡作酒造のご先祖越中屋の屋敷があり、通称越中屋小路といい、他、小路の先に浄土宗の玄光院が有ることから玄光院通りとも言われていたそうです。



(今も残る玄光院)


ある年の夕暮れ、寺町通りから「お棺」がころころと転がり、越中屋の軒下に止まり、家人は転がり込んだお棺に大騒ぎ、持ち主が現れるのを待ちますが、いっこうに現れないので、隣の和尚に念仏を唱えて供養して戴き、お棺を開けてみると中から遺体ではなく「銀子」が現れ、家人は再度びっくりしたというお話です。



(大きなビルが越中屋跡(旧岡作酒造)


出てきた「銀子」については、和尚と相談して無縁墓の供養としてお寺に納めたと伝えられています。この話から人々は「妙なお棺」から、この小路を「妙棺屋小路」と言ったと伝えられているそうですが・・・いつごろからか言われなくなり、今は誰も知らないようです。



(昭和30年代までの寺町通りと桜畠と桜木)


(この奇談は、私の昔のメモ帳に書かれていますが、何方から聞いたのか、何を読んだのか全く覚えていません。しかし、岡作さんや越中屋や隣の寺(融山院?)が出てきますので、多少の脚色は有ると思いますが、まんざら、作り話と言えないように思います・・・。)




(今の融山院・金沢学園幼稚園)


参考資料:「城下町金沢―封建制下の都市計画と町人社会―」田中喜男著 1966年、日本書院発行ほか


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