Quantcast
Channel: 市民が見つける金沢再発見
Viewing all articles
Browse latest Browse all 876

五百羅漢の桂岩寺

$
0
0

【寺町一丁目】
天祥山桂岩寺は曹洞宗の寺院です。寛永19年(1642)金沢の伝馬町で開基桂岩泰嬾和尚の発願に依って創建されたといいます。享保14年(1729)金沢の大火の際に焼失したため、現在の寺町に再建されました。昭和に入り、またも火災に遭います。昭和37年(1962)4月に子供の火遊びで羅漢像3体を残して焼失。以後寄進を募り、亮輝和尚、俊亮和尚の2代が25年後の昭和62年(1987)本堂と新たに五百羅漢像500余体を完成させ再興されました。



(今の寺町通りから桂岩寺)


(享保14年金沢の大火:フェーン現象強風の中、伝馬町から出火した火は、河原町、大工町、十三間町など795戸を焼き尽くし、その3日後、今度は寺町から出火。野町、石坂、千日町など537戸を焼失しました。)



(今の桂岩寺)


五百羅漢は、文化6年(1809)、海運天麟和尚の発願により安置が始まりますが、天麟和尚の羅漢像が300体に達した頃、多くの人を巻き込んだ加賀藩始まって以来の女犯破戒事件に連座し和尚は磔の刑に処されます。しかし、その後、20世円戒和尚、21世欄牛和尚が残りの尊像を完成させました。


(桂岩寺の門前から境内)


現在、寺には、華巌釈迦如来像(文化・文政年間)五百羅漢像3体(文化・文政年間)十大尊者像、十六大阿羅漢像、五百大阿羅漢像(計526体、京仏師吉岡元造・吉岡定一作)絹本著色虚空蔵菩薩、寒山拾得図の寺宝や文化財があります。


≪天麟和尚と五百羅漢≫
桂岩寺の天麟和尚は、曹洞宗の羅漢和尚と呼ばれた豪僧ですが、身持ちはやはりよくない方で、夜な夜な法弟と連れ立って笹下町の私娼窟に出入りしたといいます。人物は度量が大きく小さなことに拘らず、気力も度胸もあり、何時も、仲間から兄分として遇されていたといいます。



(今の笹下町界隈)


天麟和尚は、体力もあり強い坊主でしたが、自坊の桂岩寺に五百羅漢を造ることを悲願に、施主を求めて、金が出来ると京に上り、毎年10体、20体ずつを背負い金沢に帰ったといいます。



(今の笹下町の標識)


ある時、道中で山賊に出会い、所持金を奪われそうになったとき、天麟和尚は、出家の身であるので金には執着はないが、実はこの金は自分のものではなく、五百羅漢建立の大願によって施主から預かった浄財であるので、奪われたのでは、施主にいい訳がたたない、それで、お前らも奪うのが稼ぎだから、いっそのこと殺して金を奪ってはどうかと持ち掛けたそうです。





(今の桂岩寺の境内)

その覚悟に驚き感じ入ったのか、山賊は今までの無礼を、頭を地につけて詫び願わくば我々の罪滅ぼしのため一体を寄進したいと神妙にいったといいます。そこで天麟和尚は、顔を和らげ「喜捨されるなら、志を受けよう」と答えると山賊は喜んで金を渡したといいます。


(今の桃雲寺)

それから天麟和尚は京に上り幾体かを刻み、その帰りに山賊の住処にわざわざ訪ね羅漢を見せ、帰国後その一体に「施主山賊何某」と彫りつけ野田の桃雲寺の山門に安置したといいます。


(桂岩寺の五百羅漢の一部)


(最近の五百羅漢について、毎月1日に参禅しているという旧知吉村外喜雄氏の今年2月のブログによると、再興から30年、安置してある羅漢は老朽化で傷みが激しく、仏師の吉岡元造・定一さん親子は既に亡く、ご住職は父親吉岡元造さんの兄弟弟子を祖父に持つ、京仏師に羅漢の修復の依頼をなさっているそうで、修復は損傷の激しい仏像から順に、当面2年間で10体を目標に、修復には当時と同じ”絵の具”と”接着剤”を使うのだそうで、ご住職は檀家などから修復のための寄進を募りながら生涯の悲願として、五百羅漢の修復に取り組む決意を新たになさっていると記されていました。)



幕末の金沢の俳人後藤雪袋が一句
「故々に焚く 柴のけぶりか 月の隈」



参考史料:森田柿園著「金沢古蹟志」・八田健一著「世相史話、九峰事件」平成五年、石川県図書館協会発行ほか
ブログ:1247【吉村外喜雄のなんだかんだ】五百羅漢修復
http://www.noevir-hk.co.jp/magazine/


Viewing all articles
Browse latest Browse all 876

Trending Articles