【犀川左岸・W坂、桜坂辺り】
寺町に至る桜坂の上り口に、左 桜坂、右 石伐坂と刻した標柱があります。そして平成22年(2010)5月13日の北国新聞に地元の郷土史家の研究ということで「W坂、本当は「新坂」?」という説が載っていました。
その根拠は、明治の郷土史家森田柿園の「金沢古蹟志」で、その新聞記事によると、W坂を、石伐坂とは別の新坂の存在を示し「吹屋坂(石伐坂)の西方なる坂道なり。この坂は慶応元年に犀川蛤坂の道脇より新道(清川町か?)をつけ、河原を築きだし、新道をつけたころ、坂道を開きたり」という金沢古蹟志の記述をあげ、新坂こそW坂だと推察したと書かれていました。
(安政年間の古地図・石伐坂、W坂、犀川桜坂周辺)
(新坂は、金沢古蹟志に「吹屋坂(石伐坂)の西方なる坂路也。」と書かれています。今の地形や坂の位置で考えるとピンときませんが、寺町側の崖がもっと川側にせり出していて、今の桜坂は崖を削って造られたものと思われることから、吹屋坂(石伐坂)は安政の地図いあるように犀川まで降りていたはずで、坂下から見れば「西方」は今の桜坂にあたります。また、W坂は吹屋坂(石伐坂)の「北方」にあたります。)
(今も残る石伐坂の一部)
(石伐坂の途中より桜橋、片町方面をのぞむ)
私も最近まで、森田柿園の書かれたものなので“然もあらん”と思っていましたが、今回、九峰事件の宝円寺26世慈鼎九峰住職の隠居寮を調べていて、古地図や金沢古蹟志に書かれている記述を読み返してみると、上記のような認識の違いに気づき、新坂とW坂は同じものではなく、新坂は今の「桜坂」のように思えてきました。
(であれば、今、桜坂の下の左 桜坂は良いのですが、右 石伐坂という表示については、幕末の安政年間の古地図に、名称は書かれていませんが、すでにW坂があり、吹屋坂(石伐坂)は、今、桜坂の中腹右側に一部が残っているので、表示も位置も違い、これでは説明不足です。地元の郷土史家の方の”W坂を新坂だ”という説も当っていないようです。坂の名前を明治以後、四高生が命名したことで知られているため新しい坂と思われたのか、また、藩政期にすでに存在したという認識がなかったからでしょうか・・・。他に、W坂を石伐坂と書かれたものも多くあります。)
新桜坂は、昭和(1970)5月にできた新しい坂です。それまでは車は桜坂,人は主にW坂を上がっていました。以後、桜橋を渡り右に登り寺町へに通じる坂として、歩道も整備されいますが、車はほとんどこの坂が利用されています。この辺りは、春は桜のみどころも多く、坂上から遠く医王山や戸室山が金沢の四季を伝えてくれます。
(下に見えるのが桜坂、晴れれば犀川の向くに医王山と戸室山が見える)
今回は、少しややこしい話になりましたが、次回は、九峰の隠隠寮跡と森田柿園の金沢古蹟志に書かれた、森田柿園の父良郷が見た九峰の陰居寮の様子を記すことにします。
参考史料:森田柿園著「金沢古蹟志」・安政の金沢絵図など