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宝円寺第26世慈鼎九峰の隠居寮

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【桜坂・旧桜畠辺り】
慈鼎九峰は、前田家の菩提寺宝円寺の住職でした。加賀藩内に生まれ、若い頃より賢く物わかりが早く、しかも学識に優れ、宝円寺の26世の住職に撰挙され、その美名は高く、禅家の模範といわれた高僧だったそうです。



(今の宝円寺)


(宝円寺は、前田家の菩提寺で、前田家から213石2斗5升の寄進を受け、天徳院と並んで加賀藩の曹洞宗の触頭を命じられていました。)



(藩政期の宝円寺の絵図)


小立野古地図めぐり⑧宝円寺(その1)
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11911199317.html


文化7年(1810)正月、第11代藩主前田冶脩公の葬儀に導師を勤め、その功労により住職を退去し、寺町の隠居寮に住みます。寮は犀川の清流にのぞみ小立野台が薄緑色に見える景勝の地で、その建物は数寄の限りを尽くしたものであったといいます。



(石伐坂より小立野が、その奥に卯辰山も見える)



(隠居といえば、白髭を伸ばし枯れ木のような風貌に思われがちですが、必ずしもそのようなことはなく、宝円寺では、藩公の導師役になると、年が若くても隠居するのが寺の慣例であったことから、九峰は、我々が想像する隠居和尚とは違い年が若かったのではないかと思われますが、実年齢の記録はありません。)


隠居した九峰は、人間が変わったのか、地が出たのか曹洞宗開山以来の禁戒を省みず、その隠居寮において酒宴肉食は当然、女犯の限りを尽くしたといわれ、後に、多くの人を巻き込んだ加賀藩始まって以来のスキャンダラスな九峰事件につながります。


(藩政期は、一向宗以外の僧侶は女性と性的に交わることが禁じられていて、妻帯も許されていなかった。もちろん妾を囲ったり、私娼屈への出入りも厳禁で、これを犯すと女犯(にょぼん)として罰せられ、晒されたり、遠島や磔の刑もあったといいます。)



(安政年間の石伐坂と清円寺周辺図)


≪九峰の隠居寮跡≫
金沢古蹟志では、九峰隠居寮跡として書かれているのは、「吹屋坂(石伐坂)の登口にて、清立寺跡地の向う東側の地是なり」とあり、その清円寺は安政の古地図の吹屋坂(石伐坂)の上北側にあります。その東側ということですので、推測ですが慶応元年に坂になった今の桜坂の上辺りになるのでしょう。


(史料には、吹屋坂を清立寺坂と書かれているものもあります。清円寺は山伏の寺であるため明治2年に復職し神職になりますが、今そこにはありません。)



(この辺りに隠居寮が?金沢市内を一望出来る)


隠居寮は寺町桜畠の崖縁にあったと思われるところから、金沢市内を一望出来、犀川の清流を眼下に、冬は雪景色を眺め、夏は涼風に心気を養う一閑地、九峰はこの地を見立て隠居寮としたのでしょう。しかし、この地は加賀の一向一揆において犀川河原で多くの討殺があったとことから、悪霊が残り、昔から悪地といわれていたそうですが、今は、推測ですが、坂を開くため削られて土地はありませんが、昔は、ここに家作を作れば必ず異変があると伝えられていたそうです。



(隠居寮より、白禿、戸室、奥医王が・・・)


(犀川より石伐坂跡・建物と建物間に坂が)

(石伐坂より片町方面)



≪九峰の隠居寮の様子≫
もともと九峰は裕福で、しかも藩主はじめ大身の武士から常におびただしい金品を受け、隠居とはいえその隠居寮は調度も道具も贅を尽くして光り輝くものばかりであったと伝えられています。


その頃、森田柿園の父良郷は、縁の人と共に、隠居所を一覧した記述があります。それによると隠居寮の建物は初めから、外部の人には秘密のような間取りや造作があり、九峰の下心が窺えるものであったと書かれています。例えとして、床の壁を押せば、開き戸になっていて、その裏に小間があるとか、押入れの内壁を押せば、思いもよらぬところに料理場などがあり、僧侶には禁じられている魚鳥の料理を自由にしたことが窺えるものだったそうです。




(今の石伐坂上)


(この隠居寮は、事件の処分が済んだ後、文化12年(1814)破却を命じられ、今は跡形もありませんが、今、造ろうとしても造れないような遊びのための寮(寺)だったらしい、景観も素晴らしく、今、有れば、多分あのお寺と双璧をなす観光の名所になっていたのでは・・・?)



参考史料:森田柿園著「金沢古蹟志」・八田健一著「世相史話・九峰事件」・安政の金沢絵図など


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