【長町・竪町・寺町台】
九峰事件は、高僧と若い後家さんのスキャンダル事件に留まらず、一波がやがて万波を生み禅坊主はもちろん370余人もの武士も町人も男も女も検挙されるという大騒動になり、加賀藩内を轟かせます。それにしても何故!!偉いはずの高僧がエライ事件に嵌ってしまったのでしょうか・・・。
九峰は、若くして徳を積み、宝円寺の住職になり、11代藩主の葬儀の導師まで勤め、世俗の人々の尊敬と羨望の対象を超えた高位なところに昇りつめます。しかし、まだ若く、魔がさしたのか、元々破廉恥なのか、高徳を積んだはずの人物が、若い後家の艶色にメロメロになってしまいます。
(九峰)
いったいその女性は?興味しんしんです。史料としては、当時、小松の俳人が書いた「寝覚の蛍」を引用したものが多く、多少差異はあるものの、筋書きはおよそ同じです。あの「加賀藩史料」にまで引用されていてビックリします。しかし、真偽は薮の中、それでも、そこに書かれている事件にまつわる記述には、知られていない文化年間の金沢の様子が少し分かったような気にしてくれます。
(「寝覚の蛍」は、小松の俳人夏炉庵耒首(らいしゅ)が宝暦、文化の亙る金沢および小松の事件を録したもので、当時の世態を知る優秀な史料です。記事は偽名で記してあり、その文章には多少相違があるといわれています。)
(九峰の隠居寮より犀川を望む)
事件のそもそもは、文化7年(1810)5月、長町6番丁の御細工奉行の野村忠兵衛350石が早世します。後妻は15歳で忠兵衛に嫁ぎますが、その時、20歳代の前半の女盛り、実子は居なかったが、一類の野村伝兵衛の子伝太郎を養子として迎えていました。後妻とも年が近いので、間違いでも起これば大変だということから、一類で相談の末、別居した方がいいということになり、実家の田辺家で引き取られることになります。
田辺家の当主は、田辺佐五右衛門といい、300石の御馬廻組で12代藩主斉広公の近習役、後家の兄にあたります。佐五右衛門は、思う仔細があったのかこれを承諾し、竪町の屋敷の隠居所を修理しここに住まわせます。
(田辺の後家)
後家の名は長操院と言い、俗名も正確の年齢もはっきりしませんが、長操院は、伝え聞くところに寄ると、もともと評判の美貌で、女盛りで未亡人になり、あでやかで、つややかな容色は、誰もほって置くはずもなく、本人も派手好きで、はすわなところもあって、未亡人らしく殊勝な振る舞など微塵もなかったようで、月の夜や花咲く日には琴の音が絶えず、雨の日も雪の日も男出入りが絶えず、近所からも「田辺の後家」と呼ばれ評判だったといいます。
(花咲く、金沢犀川)
長操院は始め翠簾都(すみのいち)という座頭を情夫とするが、出入りする男を誰となくしたがい、情を交わし妓婦のようであったといわれていますが、兄の佐五右衛門は知らぬ顔をして捨て置いたのには、深い理由が有ったのだと伝えられています。
田辺の後家と九峰の弟子、香林寺の天苗(てんびょう)との出会いは定かではありませんが、天苗は美しい修行僧であったことから、ふとしたことが機縁で、互いに誘い誘われあったものと思われます。やがて、長操院の田辺の後家は、天苗の師である九峰に馴染み、始めは人目を憚ったようですが、後に妻のように思うようになっていったといいます。
(今の香林寺)
(つづく)
参考史料:前田育徳会編「加賀藩資料」全18冊、第12編・日置 謙編「加能郷土辞彙」北國新聞社・森田柿園著「金沢古蹟志」・八田健一著「世相史話・九峰事件」石川県図書館協会発行など