前回まで。田辺の後家(長操院)と九峰の弟子香林寺の天苗(てんびょう)との出会いは定かではありませんが、天苗は美しい修行僧であったことから、ふとしたことが機縁で、互いに誘い誘われあったものと思われます。
【竪町・寺町台】
香林寺の天苗(てんびょう)は、金沢石坂町の下層民の子で、生まれつき足の裏に「天」の字のあざがあり、父親はこれを気にして観相家に相談したところ、これは凶徴だといわれ、在野に居たら祟りがあるが、お坊さんにすると出世するというので、三間道の少林寺の小僧に出されます。
(観相家:人相、容貌、骨格などを見て、その人の性質、運命などを判断する人)
天苗は、永年の修行が実り、観相家が言う通り出世し、香林寺の住職になります。しかし、修行時代に押さえ込んでいた煩悩に勝てず、すぐ近くにある笹下町の私娼屈に一度足を踏み込んでからは、急に手も付けられぬ放蕩者になっていました。彼が長操院と情を通じたのは、どうもこの頃であったらしい。
(近くの笹下町辺り)
その頃、金沢の坊さんの中には、飲酒色欲に溺れるものもいて、後家さんと破戒坊主の情話は、珍しくもおかしくもない話だったそうですが、そこに登場したのは意外な人物、宝円寺第26代の住職を勤め、かねてより禅宗では上下に尊敬と信頼が厚く、徳が高いはずの九峰和尚の行状が、やがて大きな波瀾を呼ぶ大事件に発展していきました。
(殊勝な天苗)
時に、天苗の無軌道ぶりが、かなり世間の人々に知られるようになり、寺社奉行のお取調べを受けそうだという噂まで立ちます。そんなある日、天苗は九峰に呼び出されます。九峰は、懇々と天苗の不心得を諭した末、「もうこうなっては、身の上が危ない。一刻も早く遠所に立ち退くのがいい。ついては、さし当たり身すぎ世すぎも困るだろうから、私が工面してやろう」と温情をこめて言われると、さすがの天苗も涙を流して更生を誓い、ひっそりと京へ逐電します。
しかし、九峰には天苗に京行きをすすめたのには、実は、深い魂胆があったのです。九峰は隠居すると仏事からも遠ざかり、何不自由のない裕福な生活の隙間へ天魔が忍び寄ります。
天魔は田辺の後家と仇名される長操院で、九峰は魅入られ、何時頃から九峰と長操院がねんごろになったのは定かではありませんが、おそらく天苗を通じて知り合い、長操院の二股か三角関係か分かりませんが、3人は複雑な関係になり、九峰と長操院は天苗が身近にいたのでは、逢引もままならないことから、長操院が九峰をそそのかしたのではと思われます・・・。
(2人は晴れ晴れ・・・。今の寺町台より)
色欲二筋道の長操院にしてみれば、いかに天苗はイケメンでも、明日捕まるかもしれない、スカッピンの破戒坊主より、多少、歳嵩の隠居とはいえ、まだまだ元気で裕福で、しかも僧侶としも格が違い、寮内は贅をつくす九峰の方が、天秤に掛けるまでもなく当たり前のことであったのでしょう。
天苗さえ居なくなれば、誰はばかることなく、九峰は、僧侶達の指導者でありながら、来世の地獄も何処やら、この世は天国。乳くり合ったり、二の腕をつめり返したり、浅ましくも享楽の夢にどっぷり浸っていました・・・。
(当時の寺町台)
しかし、そんなことは永く続く分けもなく、数年後、文化11年(1814)9月15日。九峰が肝を冷やし、夢から覚める出来事が降って沸きます。
(つづく)
参考史料:前田育徳会編「加賀藩資料」全18冊、第12編・日置 謙編「加能郷土辞彙」北國新聞社・森田柿園著「金沢古蹟志」・八田健一著「世相史話・九峰事件」石川県図書館協会発行など