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九峰事件④・・・地獄・人・天。

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前回まで。逮捕された天苗は、もうだめだ!!と覚悟をしたことから、その事件の一切を包み隠さず白状しただけでなく、直接事件とは関係のない金沢の不良坊主どもの女犯破戒の始末まで、ことごとく暴露してしまいました。



(今の笹下町辺り)


【寺町台】
そうなると、寺社奉行も穏便どこらではなくなります。火の手はいっそう燃え上がり、事件以外にも飛び火し出合宿の老夫婦や娼妓はもちろん商人まで巻き込み、ついに芋づる式に大勢の人が検挙されます。当然、当事者の田辺の後家(長操院)も検挙され、公事場においてご吟味(取調べ)されますが、すべてを白状します。




(永平寺)


その頃、中心人物の九峰は出奔していますが、この事態が他国に漏れ、曹洞宗の大本山永平寺が表ざたにし捜査に乗り出すと、一時、上方辺りに居たという九峰が、京において召し捕られます。




事件は約9ヶ月をへて結審します。文化12年(1815)6月6日、天苗と桂岩寺の他、九峰事件に何の関係のない竜徳寺、希翁院、竜淵寺、長国寺、宝勝寺の住職が泉野のはずれで磔の刑に処せれます。


(その他、先立って出奔した照蓮寺、金剛寺の住職は、在住であれば同罪だったといいます。)




(笹下町を今の伝える石標)


住職等はさすがに禅僧、色即是空と悟ってか、いささかも悪びれず、みな一様に白鉢巻をしめて刑に服します。特に天苗と天麟は、その態度はさすが禅僧、立派で見事だったと伝えられています。


この事件で、それぞれの寺が破却されなかったのも、天麟が召し出された時、桂岩寺と呼ばれると“寺にかかわる罪はなく、罪を犯したのはこの天麟なり“といい、以後、すべて名をもって呼び出されたといいます。これによりそれぞれの寺は無事であったと伝えられています。



そして、天麟は辞世を残しています。


けがれたる身をば枯野に脱ぎ捨ててまたも宿らん菅原の宿 天麟


九峰事件に関係のない住職は、天苗と一緒の笹下町の私娼屈に出入りし女犯破戒をやったことが発覚したためであったといわれています。しかし、ご隠居の九峰は事件の中心人物でありながら同刑に処せられなかったのは、前宝円寺の住職であり、藩侯の導師を勤めたということで、死罪を許され天徳院の座敷牢に禁固されますが、間もなく死んだといいます。


(表向きは病死ということになっていますが実は毒殺であったものと思われます。)




(今の天徳院)


田辺の後家(長操院)は、一類の座敷牢で終身禁固に処せられますが、60余歳まで存命したといいます。当時、多少身分のある女性はこうした場合、とかく寛大に処置されたといわれています。


田辺の後家の兄田辺佐五衛門は家事不取締りで、文化12年(1815)3月。組頭の青木新兵衛に預けられますが、九峰の依頼で宝円寺の什器類を持ちだし、莫大な金目なものを他に転売していたのが発覚し、翌13年(1816)正月越中五箇山へ流され、家も家禄家財も没収されたといいます。


その他、大勢の僧侶や侍、出合宿の主、私娼、そして京、大阪の什器類を売りさばいた商人などが遠島、閉門、蟄居、入牢あるいは組預、遠慮など、お咎めを蒙った者370余人といわれています。


(当時の文書には、天苗、天麟が、何時も遊んで笹下町は、出合宿の谷屋や柳橋屋、私娼、お半・お菊・お末などの名が見え、また、文化7年(1810)の春、ここの娼妓が大桜の松月寺弟子と心中したということが書かれていることからも、この私娼屈は、付近の不良坊主で繁盛したことが窺えます。)




(今の寺町通り)


(おわり)


参考史料:前田育徳会編「加賀藩資料」全18冊、第12編・日置 謙編「加能郷土辞彙」北國新聞社・森田柿園著「金沢古蹟志」・八田健一著「世相史話・九峰事件」石川県図書館協会発行など


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