【金沢市】
調べものがあって50年前に発行されて田中喜男著「城下町金沢:封建制下の都市計画と町人社会」を久しぶりに開きました。調べ終わり“あとがき”を見るとは無しに見ていました。いつも“まえがき“とか”あとがき“は失礼をして吹っ飛ばし、忙しなく本文に入りますので、よく開く本ですが、”あとがき“を読むのははじめて、まことに恥ずかしい次第です。
(この本は昭和41年に発行されたもので、私が観光ボランティアガイドをはじめてから、当時でも随分昔の本でしたが、ある意味教科書。序にかわる8氏の推薦の言葉が載せたれていて、さらに参考文献も硬軟おり交ぜ、ひじょうに多いので素人の私が金沢の歴史を知る上での道標でもあります。)
今日の話は、その“あとがき”に書かれていた50年前の地元の新聞の投書で“零点の町”という見出が付けられた挑戦状です。「金沢に見るべきものはない。金沢城の全郭を復原し、兼六園は有料にし、観光客が金を落としやすいように工夫すべきである。銀行の多い街はいうなれば静の街である」などといった内容で、この金沢を観光地と断言した革新的な意見は当時物議を醸したと書かれています。
(まさに金沢という古い池に蛙が飛び込んだように一石を投じたことで生じた波紋が、物議を醸したわけです。)
これに対して、金沢の本質ともいえる「金沢はその外見より内容を見るべきであろう。金沢には城下町の体臭がいまも馥郁(ふくいく)としてただよっている。兼六園が無料入園できるのは市民の心根によるもので“百点の町”である」という保守的な趣旨の反論があります。
そして筆者田中喜男氏は、いずれのいい分ももっともであるが、金沢を取り上げる場合、金沢城や兼六園、あるいは武家屋敷といった有形文化財だけを取り上げて云々するのはきわめて皮相的だといわねばならないと書いています。
そして、メインストリートから一歩内側へ入ると町家風の建物が並び、家々から琴の音が聞かれ、謡の唱和も聞かれ、茶や生花は市民生活に密着し、美術品の目利きも高い。俳句や短歌の会も年齢を超えた集いをつくっているといい、例えば金沢の菓子は日本一美味しいといわれているのも、こうした茶の湯・謡など伝統文化の発達の負うところが大きいと語っています。
あれから50年!!北陸新幹線が開通し金沢への観光客が多くなりました。しかし、今も金沢を語る時、その頃と余り変わらないフレーズが並びますが、実際には、当時、物議を醸し皮相的といわれた金沢城は一部復原され、兼六園の有料化は実現しました。しかし、外見では見えない馥郁とただよう臭や金沢人らしい心根など、内面的な金沢らしさは時代とともに薄れていったことは否めません。
(ハードは、ある程度金を掛ければ、残すことは出来ても、文化的というかソフトな面を伝えるのが、非常に難しいことが分かります。)
また、田中氏が指摘されていた町家は、寂れると壊して建て替えた家々が、最近では見直され、行政の後押しもあり、金沢らしさの象徴として、町家の良さを残しながら今の生活に耐えうる改築が施され昔ながらの古い街並みが蘇りつつあります。
今も、茶や生花は市民生活に密着し、美術品や工芸品への目利きは高く盛んで、愛好者が少なくなったとはいえ俳句や短歌の会も年齢を超えた集いは細々ながら幾つかの結社が活動しているようです。しかし、かって家々からもれ聞こえた琴の音や謡は聞くのは稀になっています。
現在のような金沢になっているのは想定内か自然の成り行きかよく分かりませんが、50年前、形から入るべきといって物議を醸した議論が、今の金沢に影響を与えたことは確かだといえます。
なら、今から50年後は・・・?
金沢人は、本来情に厚く、堅実型が多く実直で、波風を立てることを嫌い、余りこの手の議論は好みませんが、北陸新幹線の開通を期に、町を上げて物議を醸すくらいの議論を仕掛けてみるのも良いのでは思います。
古池や 蛙飛び込む 水の音 芭蕉
参考文献:田中喜男著「城下町金沢:封建制下の都市計画と町人社会」発行(株)日本書院・昭和41年2月25日発行