【東山(旧馬場一番丁)】
先日、長野の旧知と主計町を散策していると、この川向いに日本の近代化学の基礎を築いた櫻井錠二の生家跡があるのだが知らないかと聞かれました。私の知識は広いつもりですが浅く、特定の事について詳しい県外の方に教わることも多く、それが私のガイドネタになることから、時に私から教えて頂くこともあります。
(金沢ふるさと偉人館の櫻井錠二のパネル)
櫻井錠二については「金沢ふるさと偉人館」に20人の業蹟が展示されていて、そのお一人であるくらいしか知らなかったのですが、聞けば兄は夏目漱石に例の英国留学を勧め、また加賀宝生も教えたという熊本の旧制五高の校長櫻井房記だといい、その資料とその生地の古地図を見せられました。
古地図には、櫻井の名前は書かれていなかったのですが、以前に来たとき「金沢ふるさと偉人館」で徴(しるし)を付けてもらったものだと言うので、それを辿っていくと民家の門前に鉄板に書かれた解説と門の内には赤御影の立派な石標がありました。そして、その日から仕事の暇に櫻井兄弟を調べだしました。
(錠二が生まれた頃の安政期の古地図には、櫻井の記載がないものの、天保の古地図には確かに櫻井の記載があります。)
(天保の古地図に櫻井家が見える)
桜井錠二は安政5年(1858)に加賀藩士の百石取り馬方御用櫻井甚太郎と後妻八百の六男錠五郎として金沢馬場一番丁に生まれました。文久3年(1863)錠五郎4歳のとき父甚太郎が48歳で病死し経済的な苦境に陥ります。母八百は、これからは学問が必要となると考えて親戚中の反対を押し切り、兄2人に続き錠五郎(錠二)にも西洋の学問を受けさせます。
(錠二は子どもの頃、「錠五郎(じょうごろう)」という名前でしたが、明治13年(1880)イギリスに留学した際、外国人にも発音しやすいようにジョージ「錠二」という名前に改名します。)
(金沢ふるさと偉人館のポスター)
明治2年(1869)に藩費生(後に貢進生)に選ばれ自分の希望と母の考えとから明治3年(1870)に藩立英語学校致遠館に入り、途中7ヵ月間七尾の語学所でオズボーン(P. Osborn,1842‒1905)から英語を学び、明治4年(1871)4月には、母は財産を処分して,先に藩の貢進生として開成学校に入学していた兄房記らのもとへ錠五郎を連れて徒歩で上京します。その年、錠二は12歳の若さで大学南校(6年後に東京大学になる)に合格し、4年目からの本科では化学を専攻し、お雇い外国人のロバート・アトキンソンに師事します。
(明治2年(1869)長兄房記(17歳)次兄省三(15歳)は藩費生(後には貢進生)として東京へ遊学します。)
明治9年(1876)に文部省の国費留学生に選ばれ、イギリスのロンドン大学に留学し、1年目に化学の試験において首席を取り金メダルを受けます。2年目には首席を取り奨学金を受けました。研究は、アトキンソンの師でもあったアレクサンダー・ウィリアムソンの指導を受け、有機水銀化合物の研究を行い、その成果により明治12年(1879)にロンドン化学会の会員に推挙され、終身会員となります。
櫻井は明治14年(1881)に日本に帰国し、アトキンソンの後任として東京大学理学部講師となった。翌年には教授に昇進した。化学系の教授としては松井直吉に続いて日本で2人目であった。この年に加賀藩士の娘・岡田三と結婚しました。
次回は、その後と長兄櫻井房記、次兄省三、孟母といわれた母八百について
(つづく)
参考資料:金沢ふるさと偉人館
http://www.kanazawa-museum.jp/ijin/index.html
日本の近代化学の基礎を築いた一人の化学者櫻井錠二
金沢ふるさと偉人館の増山学芸員談など