【東山(旧馬場1番丁】
25歳の若さで東大教授になった櫻井錠二は、明治37年(1904)には原子量基準を「酸素にすべき事」に池田菊苗と連名で提言しています。明治40年(1907)東京帝国大学理科大学長に就任。
(櫻井錠二展示の金沢ふるさと偉人館)
大正元年(1912)東京帝国大学総長事務取扱を任命され、60歳の大正6年(1917)同郷で共に英語を学んだ高峰譲吉、当時の財界の重鎮渋沢栄一らと「国民科学研究所」の必要性を提唱し、設立された「理化学研究所」の副所長に就任します。
以後、62歳で38年間在職した東京帝国大学を退官し名誉教授となり、翌年大正9年(1920)貴族院議院に勅撰され、大正15年(1926)69歳には枢密顧問官に任命され、帝国学士院院長に就任します。
(金沢ふるさと偉人館の展示パネル)
昭和7年(1933)財団法人日本学術振興会が設立され理事長に就任、昭和11年(1936)79歳、学術研究会議の会長に就任され、翌年昭和12年(1937)1月80歳でロンドンの万国学術協会会議第三回総会に出席します。昭和14年(1939)1月82歳で日本学術振興会第七回委員総会に出席し理事長としての挨拶。その月の28日逝去します。死に際して男爵位と勲一等旭日桐花大綬章が追贈されました。
≪櫻井房記≫
錠二の兄房記は、9代甚太郎と後妻八百の長子で嘉永6年(1853)に生まれます。父甚太郎が文久3年(1863)48歳で病死すると18歳の義兄先之丞が15人扶持で召抱えられます。しかし、馬が合わなかったのか家業を怠り届出怠慢等により扶持を取上げられ、新たに16歳で房記が11代目を継ぎ40俵で召抱られます。そうなると、かっては百石取りの櫻井家は生きて行くのがやっとの生活に陥ってしまいます。
(櫻井兄弟の生家跡の近い浅野川中の橋より浅野川大橋)
母八百は、そこで家運挽回は息子達の教育にあると考え、はじめに期待の応えたのが、房記でした。明治2年(1869)藩費生として開成学校(後の大学南校、現在の東京大学)に入学、明治3年(1870)には大学南校で貢進生に選ばれ、明治11年(1878)12月24日、東京大学仏語物理学科第1期卒業し、明治15年(1882)フランスへ留学。以後、高等師範学校教授、熊本の第五高等学校の教授から校長に就任します。
第五高等学校教頭時代に、新任教師であった夏目漱石に加賀宝生流の能楽を教え、さらにイギリス留学を薦めています。漱石は明治33年(1900)年から2年間のイギリスに官費留学しますが、研究のための書籍費は膨大にかかるのに官費では到底足りないという経済的な問題や自分が進むべき方向性がつかめないフラストレーション、それに、そまつな食事などがたたり、胃を壊して、夏目漱石は孤独に耐えながら胃薬を飲んで日々を過ごしていたそうです。
神経が衰弱していく漱石を救ったのは、櫻井錠二の門下生で義妹の夫「味の素」で有名な池田菊苗との思いがけない出会いだったといいます。漱石は、自分にとって重要な転機となったと後に語っているそうです。他に「坊ちゃん」の“山嵐“や”赤シャツ”のモデルといわれる人物も金沢人ですが、櫻井房記に繋がる金沢人が熊本に集まっていたことに因るものといわれています。
・・・聞くところによると、今も、熊本では加賀宝生が謡われているそうです・・・。
(櫻井房記は、日本の学位制度草創期の理学士で東京物理学講習所(現東京理科大)初代所長、第五高等学校第5代校長長男は実業家で三菱重工業社長の櫻井俊記、娘婿は実業家の岩崎輝弥。)
(つづく)
参考資料:金沢ふるさと偉人館
http://www.kanazawa-museum.jp/ijin/index.html
・日本の近代化学の基礎を築いた一人の化学者櫻井錠二
http://www.joji-sakurai.jp ・
・NPO法人高峰譲吉博士研究会
www.npo-takamine.org/area/person10.html
金沢ふるさと偉人館の増山学芸員談