【東山(旧馬場一番丁)】
櫻井錠二は、9代甚太郎の六男というのに幼名が錠五郎。気になって調べてみますと、前にも書きましたが、母八百は甚太郎の後妻で、先妻には男子2人がいて長子は早世しますが、10代は先妻の子で二男先乃丞が継ぎます。しかし職務怠慢で放禄になり、その後、八百の長子で三男の房記が跡を継ぎ11代となります。
母八百は、房記の他三男一女を儲けますが、五男竹吉が錠二の生まれる前の年に早世しているので、四男の省三と同じく六男でありながら「錠五郎」と名づけたのではないかと推測します。そして、七男と長女も早世しています。
≪櫻井省三≫
次兄の櫻井省三は、海軍省の造船技師ですが、工部大学校が造船学科を設置した明治15年(1882)に海軍と大学校の兼務となります。明治20年(1887)には海軍少技監で東京帝国大学教授兼任に就任しています。省三には意外な面が有ってフランス留学中の下宿先でフランス料理を習得していました。後年「仏蘭西式料理の分析表」「フランス式料理の理論と応用」などの執筆があり、料理にも精通しいたそうで、その資料が現在も女子栄養大学の図書館に残っているそうです。また、当時、自宅では料理教室も開いたとも聞きます。
(東京帝国大学の赤門)
≪母八百≫
加賀藩士喜多岡如兵衛の三女として生まれ、9代甚太郎の後妻で房記、省三、錠二(錠五郎)の母で、親類の猛反対を押して上京し、本郷の加賀藩邸内の小屋を無償借用し困窮生活の中、三人の息子達は母の苦労に応えてそれぞれ当時の最高学府に進み、それぞれの分野で選ばれ西欧で学び、母の先見の明に違わず「櫻井三兄弟」は日本の近代化に大いに貢献しました。
八百は、当時の女性としては珍しく自立した女性で、時勢を見る目と決断力に優れ、三人の息子が夫々活躍した背景には聡明で偉大な母がいたということになります。
晩年の八百は和歌を嗜み、東京の櫻井房記と櫻井省三の家の間に隠居所を建て、互いに苦楽を供にし、意思は疎通しているので自ら進んで「結婚した息子とは同居しない」という持論を実践したといいます。(明治28年(1895)12月1日永眠 享年67歳)
(気多大社)
櫻井家は、初代監物から5代甚兵衛までは能登羽昨の気多大社の大宮司として代々同神社奉仕神職の首班でした。4代の大監物は従五位下と高位にいましたが、5代甚兵衛は大監物の三男で父の跡目を相続したのですが病弱なため、引退して大宮司の職を子6代甚太夫に譲ります。
寛保3年(1743)6代甚太夫は馬術に長けていたので前田家に仕えるようになり、7代弘次郎は、甚太夫の養嗣子で高橋宅右衛門の二男ですが、その長男8代甚太夫は文政13年(1830)御馬方御用扱として10年間、馬術に精進したことにより、新知行百石を賜わります。天保8年(1837)から9年間、御馬乗を務め藩の子弟に馬術を指導していたといいます。
そして、錠二の父9代甚太郎に至るまで代々加賀藩士として乗馬役を務めています。菩提寺は武士階級では珍しく一向宗の武佐広済寺でした。
(浅野川沿にあった関助馬場跡)
参考資料:金沢ふるさと偉人館http://www.kanazawa-museum.jp/ijin/index.html
・日本の近代化学の基礎を築いた一人の化学者櫻井錠二http://www.joji-sakurai.jp ・
・NPO法人高峰譲吉博士研究会www.npo-takamine.org/area/person10.html
金沢ふるさと偉人館の増山学芸員談など