【金沢市飛梅町】
今月、3年ぶりの中学校同期の同窓会が開催されます。約600人の同期生のうち、果たして何人参加するのでしょうか!?前回は約10%強、今年は、聞くところによればもう少し多くなる予定だそうです。
参加者が多かったのは50代後半から60代前半で、20%強の参加者が続きますが、60代後半からは、定年になった男性達の希望から、温泉で1泊でということになりましたが、それが原因かどうか分かりませんが、参加者が減少し、従来も少なかった女性の出席が前回の半分くらいなりました。そこで前回から日帰りで市内のホテルになりました。また、近年の返信されるはがきでは、女性の場合は家族や夫の介護というのが多くなり、中には、もう案内状を送らないようにという返信はがきも届きました。
同窓会が近いということもあり、久しぶりに母校の紫錦台中学の構内をひと回り散歩しました。家から歩いて2~3分のところに有り、近くなのに選挙の投票か、今も建物が残っている旧本館の「金沢くらしの博物館」にたま~に行きましたが、最近はその博物館もリニューアルで休館しているので、トンとご無沙汰していましたが、小一時間、同窓会でのネタを探しながら歩きました。
(新体育館)
体育館の工事も終わり、運動場も幾分広くなったような気がします。旧本館の「金沢くらしの博物館」が無ければもっと広い運動場になるのにと思う反面、この旧本館にある三尖塔が我々同窓生の絆の証のように思えます。
(二中関係の植樹と石碑がありますが、紫錦台中のものは?)
そんなことを思いながら歩いていると、構内には、旧制金沢二中の卒業生から贈られた植樹や石碑が目に入れました。旧制二中は、戦後の学制改革で昭和23年(1948)に廃校になり、校舎はそのまま、4月に新たに発足した金沢市立紫錦台中学校の校舎として引き継がれ、今は旧本館の三尖塔校舎だけが「金沢くらしの博物館」として活用されています。
(旧制二中(5年制)は、明治32年(1899)4月に創立され、昭和23年(1948)3月をもって新制高校(3年制)に引き継がれます。当時、学区制のため、小立野台から通っていた優秀な学生の中には、名門二中に入ったのに、何故、金商(菫台高校)かと不満を漏らす者もいたと聞きます。その後、昭和38年(1963)に二中の後継校錦丘高校が創立され、その錦丘は、二中の校歌の「紫錦が陵(にしきがおか)の学窓に」から新たな校名がつけられたといいます。)
(玄関と車寄せ)
(上げ下げ窓、軒蛇腹)
三尖塔の校舎は、入り組んだ屋根、玄関の車寄せ、上げ下げ窓、軒蛇腹、ランプ吊りなど、明治時代の西洋風木造学校建築ですが、当時の質実剛健の風潮から洋風建築としてはかなりシンプルで、県立三中(現七尾高校)や県立四中(現小松高校)の校舎とは内部構造、そして前庭の植え込みもほぼ同様に作られたそうですが、県立二中の屋根に何故か?三つの尖塔があります。
(旧本館の立面図)
その三尖塔は、左右両翼と正面玄関の上にある屋根を尖塔に見立て、旧制二中時代から「三尖塔校舎」と呼ばれていたそうで、私たちが通学した時代は旧本館の他、講堂や渡り廊下で繋がっている建物が多数ありました。昭和49年(1974)に金沢市の文化財に指定され、平成11年(1999)に石川県有形文化財の指定を受けています。
(何故、旧制二中(現紫錦台中学)に三尖塔が?今更どうでもいいことですが、二中の三尖塔校舎が創立する前の年に廃校になった北陸英和学校(今の北陸学院中高のところ)の屋根に尖塔がそそり立っていたのを真似たのだという説があります。北陸英和学校は作家泉鏡花や牧師長尾巻、事業家や政治家の中橋徳五郎が学んでいます。)
(今の運動場から旧本館)
そして、紫錦台中学の校名も旧制二中の校歌の「紫錦が陵の・・・」によるものだそうです。「学窓」と「学び舎」の違いはあるものの紫錦台中学の校歌にも、その「紫錦が陵の・・・」の「陵」の字が「丘」になって織り込まれ、「紫錦」を(にしき)と読まず(しきん)と読ませているあたりは、二中とは違う学校になったとはいえ、当時、学校関係者達の二中の伝統を引き継ごうという強い思いが窺えます。
他、体育館でもう特訓を強いられた「北の都」「北の勇者」も二中の応援歌が引き継がれたものでした。
≪県立二中の校歌≫
加陽の巽 神秀の
元気凝りて重む所
尖塔碧き雲に入る
紫錦が陵の学窓に
集ふ健児は七百人
翳す剛健質実の
旗章に梅の操あり
川角捨兵衛 作歌
大西安世 作曲
≪市立紫錦台中学の校歌≫
金の光に雨なるや
豊旗雲の耀ひて
青き山なみ遥かなる
紫錦の丘の学び舎に
すがしきあけの空のごと
心清らに手をとりて
力をあわせいそしまん
石野氏栄 作詞
信時 潔 作曲