【金沢市飛梅町】
今、紫錦台中学校がある飛梅町は、藩政期は金沢城の大手門前にあった加賀八家の一つで前田家(藩主)の本家筋にあたる前田長種を祖とする1万8千石の下屋敷で、家臣が住む家中町(かっちゅうまち)でした。明治2年(1869)に町の名前がつけられることになり、前田家(長種系)の家紋「角の内梅輪」の“梅”にちなみ、前田家の本家筋ということから屋敷跡は梅本町に、下屋敷跡は大宰府の飛梅の故事から町名を飛梅町としたと言われています。
(藩政期の家中町の風情が残る飛梅町)
(飛梅とは、前田家の祖先とされる菅原道真が無実の罪で太宰府に流されるときに「こちふかば・・・」と歌を詠んで別れを惜しんだ梅の木が、空を飛んで太宰府に降りたという伝説にちなんで、大宰府の梅を飛梅と言った伝えられています。)
(飛梅町の由来が書かれています)
そして、飛梅町は明治3年(1870)に小立野小学所が創設され、明治31年(1898)に廃校になる北陸英和学校、明治32年(1899)には石川県立第二中学校が建てられ、以後も北陸学院や紫錦台中学校と文化の香りが漂う閑静な文教地区ですが、昭和41年(1966)から平成12年(2000)まで、その飛梅町の町名が消えてなくなってしまいます。
≪昭和の住所表示整備≫
金沢では明治になり、従来、通称でしかなかった侍町にも新たな町名がつけられ、背割りで構成された町に細かく付けられた町名は金沢町の規模に対し多くなりますが、住民にとっては、そのことで支障を感じる事も無く、むしろ、小規模でお互いの顔が見える町や町名に対し愛着は強かったと言われています。
(石標)
それが、昭和39年(1964)10月10日に東京オリンピックの開催も決まり、国際化が叫ばれ、特に欧米の風習を取り入れて欧米に追いつこうという意識が強まり、国の指導者や中央官庁では、昔ながらの細かく分けられた町は、非合理的な旧弊で、それを解消することが、郵便配達の合理化にも繋がるということで、町を大きな区画に割るための住居表示変更が実施され、新もん好きの金沢に矛先が向けられ実験材料にされます。
金沢市は,昭和37年(1962)5月施行の「住居表示に関する法律」に基づく住居表示整備実験都市の指定を昭和37年8月に自治省から受け、住居表示の現代化のモデル都市として、市民がアレヨアレヨと思っている間に、歴史的な町名の整理統合が急がれ、あっという間の国の思う壺にはまっていました。
もちろん,町名を変えることに対して反対する声もあがりましたが、市は町名を変えることや統合については町会が納得しなかったという理由から、旧町名がそのまま残されたところもありました。また、全国的に町名変更が行われる中で、町名に愛着のある人たちは簡単に納得しないことから、次第に反対の声が大きくなり町名変更作業が滞るようになっていきます。
このような、降って湧いたような上から目線の町名の変更については、特に東京では、反対の声が抵抗運動に結びつき、昭和40年代になると町名変更の取消訴訟が複数提起されます。昭和42年(1967)には、そうした全国の地域住民からの批判が高まった結果「できるだけ従来の区域及び名称を尊重する」との趣旨のもと住居表示法の改正が行われたといいます。
あれから30数年、飛梅町が復活します。金沢では平成11年(1999)の山出市長の時代に「旧町名」に復活する運動が始まり、主計町に次いで翌平成12年(2000)、飛梅町と下石引町が復活。現在11の旧町名が復活していますが、当時の山出市長は旧町名の復活は「懐かしさよりもコミニティーの復活」とおっしゃっていましたが、金沢の文化の高さを示す試みで有ったと思います。