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町名復活!!飛梅町、下石引町、出羽町と「三交会」

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【金沢市飛梅町】
飛梅町は、昭41年(1966)4月1日から平成12年(2000)4月1日まで、石引3、4丁目と言われていましたが、平成の町名変更で隣町の下石引町と共に復活します。町域はかっての飛梅町とほぼ同じで、現在は北陸学院の中・高等学校、紫錦台中学校、金沢くらしの博物館、松原病院の介護支援センターとび梅、そして24所帯の民家で、隣町の下石引町は国立金沢医療センターだけになりました。



(下石引町から飛梅町方面)






(飛梅町辺り)

戦前から飛梅町、下石引町、出羽町の3町の住民の交流と親睦を目的に構築されていた町内会の「三交会」は3町とも「石引」に変わりますが、法律や政令には町内会に関する規定がないこともあり、その間も地域活動や公民館では「三交会」の名称はそのまま呼ばれていました。


(町内会は、日本では古くは五人組隣保制度に繋がる制度のようですが、太平洋戦争の戦時下に、相互扶助と共同監視を図るため国によって整備されます。戦後、GHQは民主主義の敵だと思ったのか結成を禁止します。講和条約以後、行政組織とは法的に無関係な自治組織として再組織化されます。)



(飛梅町、下石引町、出羽町が見える。昭和10年頃の地図)


昭和39年住居表示変更で下石引町が「石引4丁目」に、出羽町は出羽町1番丁が「兼六町(兼六園内1部)・出羽町(旧下本多町1部含む)に、国立病院の分院や護国神社などの出羽町2番丁、3番丁や出羽町4番丁と5番丁は「石引4丁目」に、そして飛梅町は昭和41年に「石引3、4丁目」に改名されました。



(左側は昭和39年まで下石引町・現石引4丁目)


私の家は大正時代から「三交会」の旧町名出羽町5番丁ですが、現在は石引4丁目です。藩政期は奥村伊豫守の下屋敷(家中町)で、明治の町名改定で出羽町5番丁なります。藩政期の1番丁は、藩の重臣篠原出羽守とその一族が、2番丁から4番丁にわたり前田家の中級から上級の直臣が住み、藩政中期以降は、武家地ですので通称で出羽町または出羽殿町とも呼ばれていたといいます。



(練兵場跡・陸軍病院分院跡)

明治4年(1871)の町名改定では、藩政期以来の出羽町の名称が継承され、1番丁から3番丁までは、軍の施設や練兵場になり、昭和10年に石川護国神社(官祭招魂社)が卯辰山から遷座し、太平洋戦争前には、練兵場が陸軍病院の分院になりますが、今は、旧2、3番丁は本多の森ホール(元厚生年金会館)や閑静な住宅地になっています。なお、昭和39年の町名変更では2番丁から5番丁まで、ほぼ全域が石引4丁目になりました。

(石川護国神社)

(県立美術館・本多家跡)

(歴史博物館・中央の渡り廊下までが本多家跡)


(現在、昭和の町名変更まで下本多町といわれた現石川県立美術館(藩政期は本多安房守の上屋敷)と現石川県立歴史博物館(本多安房守の上屋敷の一部)だけが出羽町になりました。)




(金沢医療センターと奥村家の解説板)


下石引町は、藩政期から石引通りの左側、小立野の上り口から大音帯刀の上屋敷の下(しも)の町人地までを言い、明治になり右側の陸軍病院(奥村家上屋敷跡・現医療セインター)も含まれるようになりますが、昭和の町名変更で町名は消えてしまいます。まえにも書きましたが平成の町名復活では医療センターだけが下石引町に復活します。



(出羽町には無い出羽町バス停)


しかし、現在、出羽町という地名は、かなり離れた石川県立美術館と石川県立歴史博物館で、バス停は小立野の通りの右側が“下石引“と左は”石引4丁目“にありますがバス停の名称は「出羽町」の表示で、昔から住んでいる者や観光客も、違和感を抱きながら乗り降りしています。



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