【金沢・出羽町】
明冶維新直後、経済混乱期のパニックから、巽御殿(成巽閣)の維持管理が困難になり、民間人(木倉町八幡屋弥兵衛)に売り渡されてしまいました。明冶6年(1873)当時、前田家14代慶寧公も明冶政府の方針から東京に移住、隠居の13代斉泰公も東京・根岸に3,000坪の敷地に居館をつくり移住しています。そのため、巽御殿(成巽閣)は不要になったものか、豪壮優美な建物と広大な敷地を前田家は惜しげもなく二束三文で払い下げられ、取壊される計画でした。
(明冶6年(1873)日本ではじめて地租改正が行なわれ、土地に対する私的所有権がみとめられ土地の所有者に地券が交付されました。当時、金沢では、県庁も美川に移り特権を失った士族は他所に移住したりして、町中に空家や空地が目立ち、土地所有者は地租を払うことが出来なくなり、もらってくれる人がいたら酒二升(14銭)を付けていたという時代でした。)
一度売られた巽御殿が、県の役人の機転から買い戻しに成功します。当時の資料によると、建物奥向は、約700円、木立は約20円、跡地1,093坪ばかり(坪6銭1厘)66円67銭3厘、竹林5,881坪353円、合計1,142円とあり、当時の1円が今の25,000円とすれば、建売住宅一軒分の28,550,000円と、まさに二束三文でした。
(因みに買い戻した金額は、わずか961円29銭5厘(今の約24,030,000円)で売値より安く買い戻しています。お上の威光?官尊民卑?、当時の県の立場が覗き見えます。)
巽御殿(成巽閣)が売却済みを知った県の役人は、後に県最初の政党組織「忠告社」の社長になる杉村寛正(藤勉一)でした。明冶5年(1872)2月の太政官日誌によると、藤勉一は、石川県七等出仕で政府から石川県に出仕を命ぜられた特別扱いの役人で、太政官辞令の七等出仕は、石川県では、県令、権令、参事、権大参事(七等出仕)と№4の要職で、後に政治家として活躍しますが、各郡長、代議士、県勧業博物館長を歴任した明冶政界の大人物でした。
驚いた藤勉一(杉村寛正)は、旧所有者前田家に、買戻しの旨を嘆願します。その努力のかいあり、破壊寸前の巽御殿は難をまぬがれ、買い戻され県へ譲渡されます。その条件は市民のための学校でした。すでに版籍奉還により蓮地御庭、竹沢御殿、巽御殿は学校管理になり、巽御殿は、洋学を教える中学東校に、明冶4年(1872)有志により初めて展覧会が行なわれ、県に移管されてから、明冶7年(1874)に初めて博覧会を開催され、明冶9年(1876)には博物館西本館となり、前にも書きましたが明冶41年(1908)に前田家に戻ります。
≪杉村寛正と忠告社≫
忠告社は明冶8年(1865)に、金沢、大聖寺の俊秀のほとんど約1000人を集め、金沢の東別院で結社式を挙げた金沢で最大の政党組織でした。寺町の大円寺に事務所があり、版籍奉還後、することがなくなった士族の参加はもちろん多かったとはいえ、石川県人の政治熱の高さを示すもので、当時は全国屈指の政治結社だったそうです。
(藤勉一(杉村寛正))
その社長が杉村寛正(藤勉一)で、加賀藩の算用者の長男で、弘化元年(1844)金沢に生まれ、壮猶館で刀法、兵学、漢籍を学び、明冶元年(1868)の大村益次郎の伏見兵学校で島田一郎(大久保襲撃の主犯)とともに入学して新兵学を研究しますが、一時脱走し藤勉一と称します。廃藩置県で長閥追放のとき金沢県の権大参事になります。石川県の初代内田政風県令が陰で忠告社を助けたため、県内で唯一無二の政治結社忠告社は、当時、県も県内いずれの町も重要な職はほとんど忠告社の社員で占められ、忠告社員に非ずんば人に非ずといわれたそうです。
(明冶8年(1875)3月、初代県令内田政風が退官すると後任に忠告社と肌が合わないといわれた参事桐山純孝が昇格して2代県令になると、忠告社員は県の吏員から次々に除かれ間もなく、忠告社は急速に衰退したといわれています。)
(内田政風)
参考文献:「兼六園全史」兼六園全史編纂委員会石川県公園事務所、 兼六園観光協会、昭和51年12月発行・「石川百年史」石林文吉著、石川県公民館連合会、昭和47年11月発行