【金沢・兼六園】
兼六園の梅林は、明治100年の記念事業として、昭和43年(1968)から昭和44年(1969)にかけて造成されますが、そこは明冶30年(1897)より長谷川邸址として、広く市民に開かれた公園(広場)でした。私も子供の頃は走り回ったり、少し大きくなったからはソフトボールやドッチボールをしたり、隣の児童苑で檻の中の猿を厭きもせず眺めていた懐かしいところでした。
明治41年(1908)5月、地元出身の東京帝大教授で政治家戸水寛人の演説会や大正6年(1917)4月の永井柳太郎の「来たり、見たり、敗れたり」の敗戦感謝演説会が、戦後には辻政信の時局講演会の会場として、また、昭和4年(1929) 5月5日には金沢で初めてのメーデーや昭和21年(1946) 5月 戦後初のメーデーが2万人の労働者を集めて開かれています。一隅には、戦前に建立された衣冠束帯姿の14代前田慶寧公の銅像があったといいます。
(戦時中の昭和18年(1943)7月には、 食糧増産のため長谷川邸跡750坪を開墾し、ソバ1斗8升を蒔かれたという記録もあります。)
「来たり見たり敗れたり」と金沢湯涌江戸村③
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10990716874.html
14代前田慶寧公の銅像は、昭和5年(1930)除幕式が挙行された「加越能維新勤王記念標」で、元治元年(1864)嗣子前田慶寧は、御所警備で在京中長州藩と幕府の斡旋をしようと働きかけますが失敗し、「禁門の変」の当日、無断で退京したことから、幕府の圧力を恐れた13代藩主前田斉泰公は、嗣子慶寧に勤慎を命じ、側近の松平大弐、千秋順之助、不破富太郎、大野木仲三郎ら勤王派の藩内尊王討幕派45名に切腹、死罪、禁獄、流罪を申しつけます。
(明冶維新を迎え名誉が回復され、14代慶寧公の銅像と45名の志士の氏名を刻んだ「加越能維新勤王記念標」でしたが、昭和19年(1944) 1月 に前田慶寧公の銅像が献納され今はありません。)
(前田綱紀公)
それ以前、藩政期には12代斉広公の時代、竹沢御殿の調練場、馬場、厩、下部屋が、さらに11代治脩公の時代には藩校明倫堂・経武館、5代綱紀公が日本66州の種米を植えさせた66枚田があったという、それ以前には横山家の屋敷、波着寺など、また、一向一揆時代には“本源寺”の言い伝え、そして、平安末期、金沢に今も残る芋堀藤吾郎伝説“金洗い沢”等など、この辺りには、これらにまつわる伝説や伝承がごろごろしています。
(前田治脩公が綱紀公の意思を継いで、京都の儒学者新井祐登(白蛾)を招き、文武の学校の設置を計画させ、寛政4年(1792)に今の兼六園の梅林のところに落成し、文学所を「明倫堂」とし、演武場を「経武館」と呼び、7月2日に開校。文学・皇学・漢学・医学・天文学・易学・算学・法学・武学等を教授しました。文政5年(1822)3月の仙石町(現,いしかわ四高記念公園内)に移築しますが、明治3年(1870)10月に閉校となりました。)
(今の梅林、昔の長谷川邸址)
話を戻しますが、長谷川邸址とは、今の梅林や県の公園事務所の敷地に、時雨亭の建物・敷地・長谷池付近一帯の平地約4,500坪ですが、明治5年(1873)5月に、兼六園は期間を限定しないで開放することになります。県には兼六園管理の財政的余裕がなく、園内に住宅を設けることや茶店や店舗を営業する者には土地を払い下げます。
県は窮余の策として、園内のどこにでも茶店の設置を奨励し、土地の無償譲与、建物構築の自由を与え、その代償として付近の風致維持管理を行うことを条件にしました。この好条件ですから申し込みが殺到し、申し込んだものには誰にでも茶店営業を許可したそうです。それにより長谷川準也も長谷池付近から梅林に至る約4,500坪に自邸を構えたものと推測できます。
長谷川準也は、後に金沢製糸場を創設し2代の金沢市長になりますが、自邸は、各種の桑苗を植え桑園を研究し、宇治から茶の実を取り寄せ栽培しています。また、居宅の2階の全部を開放して、養蚕飼育の伝習所にしていて、準也の製糸工場と士族の授産事業にかけり思いが伝わってきます。
(つづく)
参考文献:「兼六園全史」兼六園全史編纂委員会石川県公園事務所、 兼六園観光協会、昭和51年12月発行