【金沢・兼六園】
長谷川準也の兼六園での住宅取得は「兼六園全史」によると、廃藩置県以前、金沢藩時代の明治3年(1870)1月に兼六園には長谷川準也邸が有ったと書かれています。また、兼六園が与楽園として明治5年3月より時間限定で公開される前に、この自宅の2階で養蚕飼育を行なったとも書かれていますが、長谷川準也は維新後の金沢藩士官で、明治の合い言葉“殖産興業”の鬼といわれた人物だけに、いかにしてこの土地を取得したのか興味が沸きます。
(時雨亭の庭・長谷川邸址)
以後、長谷川準也は明冶6年(1873)金沢市総区長になりますが、当時、金禄処分で困窮していた士族の生計を立てるために殖産興業を推進し20数社を設立、失業の士族に養蚕を勧め、金沢製糸場や銅器会社などの会社を設立し、また、尾山神社の神門建設や電灯設置にも尽力しますが、その明治の初めに手がけた事業の多くが失敗します。
明治22年(1889)の初代市長選で敗北。それに引き継いで25年(1892)の市議半数改選、さらには初代市長稲垣義方の弾劾の政治運動で相当な財産を失います。明治22年(1889)に全国31の町や区と共に金沢も市になりますが、市議会議員は選挙によって選ばれます。しかし納める税金の額で投票の資格者が決まります。当時、金沢の人口約9万人で、その9割以上の人が投票出来ませんでした。市長は市議会で2~3人選び順位をつけて政府に提出して、内務大臣が任命することになっていたそうです。
(当時の選挙事務はかなり杜撰なものであったようで、買収供応が横行して、候補者側の意思もさることながら、有権者側でもその金銭の大小のよって向背を決めるようになっていたとか・・・・)
その後、明冶26年(1893)に第2代市長に就任しますが金繰りに苦しみ、明冶26年(1893)12月羽咋の近岡某より、1年の期限を切り、邸宅と地所を3,500円の融資を受けます。その後、邸内の庭石や灯篭を抵当に金沢の木下某より50円を借り、まもなく売却を約束しますが、期限内に返済できなくなり、邸宅や地所を金沢の今村某に4,650円で売却し、これで支払います。その後、庭石や灯篭、庭木などを120円で金沢の宇野某に売り払ったことが表ざたになり、明らかに違約の連続であり、詐欺に類するということになります。
(木下某に対する売約証書が政敵の手に渡り、長谷川失脚をねらって裁判所に訴えられ、与審では無罪となりますが、検事が控訴したため、公判に付され、明治30年(1897)12月3日自動的に市長の椅子を去っています。)
明冶28年(1895)11月27日に、県会はこの宅地を博物館付属地として買上げることを決議します。
「金九千六百拾弐円九拾六銭壱厘」
出羽町三番地外三十三筆の地所建物及立木配石共現在ノ儘勧業博物館ノ附属地トシテ買入レ公園ニ使用セントスルニ由ル」とあります。尚、出羽町三番地とあるのは、一番丁三番地の誤か。」
(つづく)
参考文献:「兼六園全史」兼六園全史編纂委員会石川県公園事務所、 兼六園観光協会、昭和51年12月発行・「石川百年史」石林丈吉著、石川県公民館連合会、昭和47年11月発行