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Channel: 市民が見つける金沢再発見
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今、梅林。昔、長谷川邸③長谷川準也

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【金沢・兼六園】
大正10年(1921)発行の和田文次郎著の「長谷川準也君」には、天保12年(1841)10月8日に柿木畠野々市屋小路に生まれ、曽祖父準左衛門尚之は徒歩の出で明倫堂の進講(先生)に進んだ学者で、祖父源右衛門猷は、御土蔵奉行で本多利明に学び外国にも通じ薬を創り発売したという才人だとか、父與一郎は150石の藩士で忠実勇毅な人だったそうです。どうも禄高は多くはないがかなりの資産家だったらしい・・・?


(明冶3年(1870)兼六園が一般に開園される前から、長谷川準也の屋敷が兼六園にあったことに疑問を抱き、どんな経緯で取得したのか気になり調べて見たのですが、以下に書く余計な知識だけが膨んでしまいました。ご存知の方がいらっしゃいましたらお教え戴ければ幸いです。)



(今の柿木畠野々市屋小路・左側が長谷川家跡)


長谷川準也は、幼名孝次郎といい弟悌二郎(大塚志良)とは、双生児でした。“長谷川の孝悌”は、城下では、体格も腕力も抜群で同輩達はかなわないと思っていたらしい、柿木畠の厩橋にあった馬渕という少数精鋭揃いの剣術道場の高弟だったといいます。23歳での長州征伐以来8年間、藩の軍務に励み功が認められ陸軍准大佐に昇進しています。



(馬渕道場跡?)


(悌次郎(志良)は、少し先に生まれたのですが、悌次郎を弟としたのは、昔からの習慣だったと聞いていると和田文次郎著の「長谷川準也君」に書かれています。)



(竪町・柿木畠付近)


明冶4年(1871)廃藩置県前の金沢藩の兵力は、洋式艦6隻、実数でフランス式銃隊2大隊、役員150人、兵1280人。その内1大隊は東京勤務。1砲隊、役員15人、兵134人。イギリスス式1大隊、役員105人、兵600人。齊勇館教授役員57人。その他に補充要員が2566人。兵隊屯所3箇所。大砲総数289門、小銃10964挺。と「加賀藩史料 藩末編下卷」に記されています。



(柿木畠厩橋)


尾山神社②由来など
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11931249959.html


明冶初年頃から金沢の開発に関しては、準也・志良兄弟の施設計画に反対するものも多くいましたが、準也・志良兄弟等の勢力が強く、当時の新事業は長谷川達によって出来た仕事が多く「兼六園の開放」「尾山神社の建設」が主なまのですが、やがて、西洋蝋燭、薬品による染色、製糸場、撚糸会社、七尾の製塩、造船、銅器会社に繋がっていきます。




(長谷川邸址)


金沢製糸場≪鞍月用水⑤≫
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11826524545.html


明冶5年(1872)頃、準也は県の大属(判任官8等・県の序列NO,5?)で勧業課に勤務していて殖産興業に力を注いでいました。当時、県参事桐山純孝と意見が衝突して退職してしまいますが、その時に県庁に在職した石川県人 や金沢区の吏員や学校の幹部にいた者も憤慨してその大半が退職してしまったといいます。また、県の大属と兼務で金沢総区長の任にありましたが、明治6年(1873)32歳の時、旧藩士は業を失い困憊を見かね殖産興業に専念するため総区長を辞職します。


(桐山純孝参事は岐阜の人で、後に県令になりますが、温厚であるが包容力がなく、しょせん練達の事務屋であったため革新的な長谷川準也と意見が衝突したのでしょうか?)


(長谷川邸址)


≪長谷川邸のその後≫
明冶28年(1895)県は長谷川邸を兼六園附属地として買い上げ、明冶30年(1897)元長谷川邸地を兼六園の敷地に編入しますが、数年間、空き地になっていました。東京の前田家では当主が金沢に帰省しても成巽閣が県の所有物では、宿泊する場所がないことから、金沢に別邸をとの意向もあり、別邸となる場所を探していました。長谷川邸址が空地ままであったので、この土地の買収に乗り出し、県も同意し前田家へ譲渡します。


(地代は坪3円として4,469坪7合に対し、価格は金13,409円10銭也、残建物1棟坪15円として、24坪に対する価格金360円也。税金546円37銭也。合計金14,315円47銭也。残存建物借用人は170円の補修工事費名義で立退料を受け取り明冶36年(1903)8月31日立退き。)


明冶36年(1903)10月13日登記して前田家の所有となりました。が、この土地の譲渡に対し前田家では明冶36年(1903)11月7日付で15,000円を県に寄付し、県は11月16日採納しているから売買譲渡ではなくなりました。



(成巽閣)


前田家では、この土地を空地としている内に明冶42年(1909)9月、前にも書きまいたが、大正天皇が皇太子の資格で石川県へ行啓されることに決定し、県はその御旅館を苦慮、莫大な旅館費用を要することから、当時、県財政では賄い切れないことから、前田家に相談し成巽閣を前田家に返却することで前田家に一切の御世話を願いたいと申し入れました。


当時の前田家当主16代侯爵前田利為候はこれを快諾し、旅館として使用することに決定。県は安心して一切を前田家ヘ依頼します。交換地として明冶36年(1903)県が前田家に譲渡した長谷川邸址4,469坪7合を受領します。


(前田家が交換した成巽閣の土地は、3,822坪、合計金額は13,845円20銭也。)


参考文献:「兼六園全史」兼六園全史編纂委員会石川県公園事務所、兼六園観光協会、昭和51年12月発行・「長谷川準也君」和田文次郎著、発行者小泉顕治、大正10年10月15日発行


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