【北海道→金沢→東京】
盈進社のボス遠藤秀景は、明治16年(1883)より北海道に拠点を移し士族授産の事業に邁進しますが、ことごとごとく失敗に帰し、明治18年(1885)には、金沢に帰っていましたが、明治19年(1886)初頭には全面的に事業を放棄し、志を再び政界にのばすことを決意し、一族郎党金沢に引き揚げさせます。北海道から暗雲が金沢へ、遠藤の行くところには嵐が、その是非は別として、それが遠藤の真骨頂のようです。
当時の4代県令、5代県知事は、旧土佐藩士で後に男爵となる岩村高俊。酒豪で花柳界に入り浸り、しかも県令の政治は待合政治で、石川県の政治を堕落させたのは岩村だというものもありましたが、どうしてどうして、岩村は、酒色にふけっても自分の本務は忘れず、いかに泥酔しても県治の事では相手にスキを見せなかったそうで、酔ってる最中に言う冗談は、相手の心臓を貫く辛らつな皮肉である場合が多く、もはや誰もその手腕において岩村の右に出る者はいなかったと言われています。
(千坂県令)
(岩村高俊)
岩村県令が着任した頃から前任の千坂県令のような攻撃目標がいなくなり、県政はとたんに無風状態になります。岩村の県会工作の手腕もありますが、それまで騒動の原因となった盈進社の遠藤秀景が明治16年(1883)2月から起業社の北海道開墾に乗り出すことのになり、留守を預かった者は、広瀬千麿、河瀬寛一郎、関屋釜太郎ら数名だけ、これらの留守番役は、いずれも遠藤との間にミゾができた者ばかりで、積極的な活躍をしなかったものとみられます。
(なかには、1人や2人は岩村の反抗するものもいましたが、こんな時、岩村は相手の心中を打診するため“犬芸回し”をやり、相手を試したそうです。官吏や警察官を1人ずつ呼び、鼻先に酒の肴をつるし“ワン”と言わし“チンチン”をさせ“おあずけ”や“お回り”もさせたそうです。もちろん酒席の座興であるが、その情けない芸を岩村は脇息のもたれ、芸者と高笑いをし、「石川県はかねてから難治県といわれていたが、実はたわいもないもの、ダンゴをこねるようのも」とうそぶいていたそうです。)
(遠藤秀景)
話を進めます。明治22年(1889)1月の県会議員選挙ですが、遠藤秀景の自由党が31対5の大差で改進党を圧勝します。敵がいなくなると必ず起こるのが内部抗争です。この時の抗争は県会の議長です。加賀の議員が推す遠藤秀景と能登の議員をバックとする小間粛です。
小間粛と遠藤秀景の争いは特に激しかったといわれています。この議長に就任すると、2月21日の憲法発布の大典に参列できることになっていて双方は譲らず、ついに自由党分裂の危機になったとき、やっと有志の調停により“一年交代”で妥協が成立し2月6日の本会議までに遠藤秀景が議長につきます。
(後日談ですが、“一年交代”の約束でしたが、遠藤は約束をホゴにしています。)
(当時の県庁)
大典には、岩村知事も参列しますが、自由党圧勝で、岩村はこの際、遠藤秀景に乗り換えようと画策します。今のように2時間30分で東京へは行けません。遠藤の議長就任は2月6日、大典が2月11日ですから、5日しかない、東京に着いたのは8日の夜。遠藤は、あたふたと上京してきたので、何の用意もしていないことを察した岩村は、大典に燕尾服を着ていかなけば参列できないことから事前の新調し贈ります。ところが当時、礼服は極めて厳格で、服の寸法や手袋に至るまで規格があって、遠藤の寸法に合わない燕尾服では、どうにもならので急ぎ仕立て直しをし、シルクハットも岩村の秘書から借りものでした。
大典参列も無事終わり、この後しばらく岩村も遠藤も東京に滞在しますが、遠藤に近づきたい岩村はわざわざ遠藤の宿を訪れます。酒をくみかわし大いに県政の事を語りあうが、岩村は、例によって、酔いにまぎれて「遠藤、貴様憲法発布になった限り、今までのように暴行ざたは慎しまなくてならないぞ」と高飛車にでます。
これに際し遠藤は「いやしくも遠藤秀景に対して貴様呼ばわりは奇怪千万、無礼を申すと許さんぞ」と一渇すると岩村は「いや、これはおれが言い過ぎた、遠藤君そう怒るな」と率直にあやまったという。この時、岩村45歳、遠藤37歳。石川県の高官を“犬芸回し”をし、その権勢並びなしと言われた8歳年上の知事を一渇し、これをすくませた者は、遠藤をおいてなかったと伝え聞いています。
(つづく)
参考文献:石林文吉著「石川百年史」発行昭和47年石川県公民館連合会など