【金沢市】
岩村高俊知事さえも一目おかざるとえない県下唯一の実力者となっていた遠藤秀景は、その実力を発揮したのが、明治22年(1890)4月に行なわれた金沢初の市会議員選挙即金沢市長選挙でした。当時、市長は市会議員による間接選挙で、この選挙は前年の4月17日、市町村制が公布され、明治22年(1890)4月1日に金沢に市制が実施されます。
第一回目の金沢の市長候補として、官吏一筋に歩いてきた改進党系の稲垣義方と事業家の長谷川準也で、長谷川は、事業優先で政治活動は見向きもしなかったのに、明治21年(1889)に後藤象二郎が来沢し、自由党系の大同団結を呼びかけた頃から、にわかに政治的動きを見せ始め、明治22年(1890)1月に県会議員選挙で自由党系の盈進社を応援し、自由党が31対5で改進党系に大勝したのを目の当たりし、自由党系有利と見て盈進社に近づいてきた長谷川準也の2人でした。
(長谷川準也)
今、梅林。昔、長谷川邸③長谷川準也
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稲垣義方の経歴は、加賀藩御馬廻組の家に生まれ、かって島田一郎と交遊があり、明治8年(1876)の忠告社結社式で社長杉村寛正と島田が衝突したとき仲裁役を、明治21年(1889)に、臨時県会で自由党議員に警察をいれ場外へ退去させ、改進党が単独審議し可決したのに腹を立てた盈進社社員が岩村知事と改進党に決死の非常手段に出ようとしたのを調停したりした今で言うところの調整役の官吏です。
(稲垣義方)
最初は忠告社の有力メンバーでしたが、忠告社員全部が野に下ったのちもただ一人県吏としてとどまり、石川県大属・一等属・越中の上新川郡長となり、明治17年(1884)からは金沢区長を勤めていました。いわゆる政府筋に近い能吏との評が高かった人物です。かれを市長に推す有力母体は、区吏の組織やどちらかといえば藩閥政府に友好的な立憲改進党に属し、数え49歳でした。
(長谷川準也が創設した金沢製糸場)
長谷川準也は、前にも書きましたが、創成期の忠告社幹部で、明治6年(1873)に短期間金沢総区長に任じられますが、やがて野に下って実業界に転身し、明治7年(1874)金沢銅器会社をはじめ金沢製糸場や金沢撚糸会社を創設して、産業発展に精力を傾けますが、急に長谷川が政界に転向したかというと、彼は市長を目指したのは、企業欲のためだったといわれています。
(長谷川準也が建設した尾山神社)
明治17年(1884)財界恐慌で、県下唯一の北陸銀行が支払いを停止したとき、岩村知事は、政府と前田家に頼み20万円の資金繰りをしますが、やがて景気が回復し、銀行自体がある程度支払い能力がつき、結局、補助金20万円の内、約11万円を県が保管していたのを、長谷川が市長になれば、その地位を利用して、県から融資してもらい新しい事業を起そうといわれていますが、それでも官僚出身でない長谷川の実業人的手腕に期待する人や、当時における反藩閥・反官僚の先頭に立っていた自由党のメンバーが推します。稲垣より1つ下の数え48歳でした。
これまでの盈進社は、金沢における自由党の中核だと自負していました。それにもかかわらず、自由党に背を向けて、官僚の団体である区吏の組織した公平倶楽部と一体となり、政敵立憲改進党と手を握ったのです。その結果は、多年盈進社と争っていた亀田伊右衛門、渡瀬政札、森下森八などの立憲改進党の幹部は堂々と市会議員に当選し、長年のかれらの盟友であった小鍛冶市左衛門、児玉嘩心、平野在直など自由党人は、いずれも落選します。それら多数の稲垣が金沢の市議の推挙によって初代金沢市長稲垣義方が実現します。
この盈進社の行動は、主義主張にもとづいたためではなくて、権力に尾を振り、個人的な感情と私的な義理人情で行動したためにほかありませんが、盈進社の行動は稲垣派の勝利に大きな貢献をします。しかしその勝利の実を味わったのは、本来の稲垣派のみで盈進社ではなかったのです。この市長選を境に盈進社は2つに割れ、以後、急速に没落の道をつき進んでいきました。
(つづく)
参考文献:石林文吉著「石川百年史」発行昭和47年石川県公民館連合会など