【福井県・永平寺町】
大本山永平寺は、今から約770年前の寛元2年(1244)道元禅師によって開創された「日本曹洞宗」の第一道場で出家参禅の道場です。境内は約10万坪(33万㎡)、樹齢約700年といわれる老杉に囲まれた静寂なたたずまいの霊域に、七堂伽藍を中心に70余棟の殿堂楼閣が建ち並んでいます。
(大本山永平寺)
一般の方は、全部を見る事は出来ませんが、中心的な七堂伽藍を含め、その他いくつかの建物は中に入って見る事が出来ます。
(七堂伽藍とは、宗派などにより異なりますが、七つの堂のそろった大きな寺で「七堂」とは、塔、金堂、講堂、鐘楼、経蔵、僧房、食堂で、禅宗では、山門(さんもん)仏殿(ぶつでん)法堂(はっとう)大庫院(だいくいん)僧堂(そうどう)浴室(よくしつ)東司(とうす「便所」)を指します。「伽藍」とは、僧侶が集まり修行する清浄な場所の意味であり、のちには寺院または寺の主要建物群をいうようになりました。)
(山門の四天王)
一階には、四天王を祀り、二階には五百羅漢を安置されています。永平寺で最古の建物で寛延2年(1749)8月、永平寺42世円月江寂禅師によって再建されたものです。昭和55年に福井県の文化財に指定されています。修行僧が入門する際の玄関にあたり、厳寒の2月に何時間も待たされた末、厳しい禅問答が行われ、一度上山すると、下山までは門から出ることができないそうです。
明治35年(1902)の改築で、屋根は中国宋時代様式の二重屋根に、床は石畳となり、建築美が際立つ伽藍となっています。須弥壇(しゅみだん)と呼ばれる壇の中央には本尊の釈迦牟尼仏が祀られ、右に未来弥勒仏、左側に過去阿弥陀仏の三世如来を祀っています。
法堂(はっとう)
「聖観世音菩薩」が祀られており、七堂伽藍の中で最も高い場所に位置にしています。
僧堂(そうどう)
「雲堂(うんどう)」「座禅堂」とも呼ばれ、座禅・食事・就寝に至るまでの禅修行の根本道場。「文殊菩薩」が安置されています。
大庫院(だいくいん)
修行僧のご飯を作る大庫院(だいくいん)と、永平寺に泊まる方へご飯を作る、小庫院(しょうくいん)とがあり、玄関正面には「韋駄天尊」が祀られています。
(韋駄天が釈尊のために方々を駆け巡って食物を集めたとの俗信に由来し、御馳走(ごちそう)という言葉ここから生まれたという。)
「大庫院だいきいん」前に、長さ4m、胴回り1mもの巨大なすりこぎが掲げてあります。「食事作法そのものが仏行」という教えからか、女性は3回なでると料理が上手くなるとか、男性はご機嫌取りが上手くなるといわれているそうです。
浴室(よくしつ)
雲水たちの風呂。一切の私語が禁じられている永平寺三黙道場の一つです。
(東司とうす)
雲水たちの手洗い、僧堂・浴室と同じく三黙道場の一つです。
永平寺といえばこの勅使門、普段は固く閉じられています。
(永平寺全景図)
≪その後永平寺≫
大本山永平寺は、2世孤雲懐奘、3世徹通義介のもとで整備が進められますが、義介が三代相論で下山し4世義演の晋住後は外護者波多野氏の援助も弱まり寺勢は急激に衰えます。
(三代相論(さんだいそうろん)とは、文永4年(1267)からおよそ50年間にわたった曹洞宗内の宗門対立のことで、開祖道元の遺風を遵守する保守派と民衆教化を重視した改革派の対立、結局、義介が永平寺3世、曹洞宗3世となりますが、急速な革新に対する反発は次第に高まり義介の定めた行持に従わない者が続出するなどして、ついに文永9年(1272)2月に義介は退任します。)
義介は自ら定めた行持を古規に戻すなど反対派との融和を図るが対立は深まる一方であり、7年後の弘安10年(1287)永平寺を下山し加賀大乗寺に移り、この時、義介に従う多くの弟子も大乗寺に移り、道元の法系は永平寺と大乗寺に分かれることになります。4世義演が永平寺住職に就任しますが論争による寺内の疲弊は甚だしく、また4世義演が開基波多野氏の信頼を得られなかったこともあって寺勢は急速に衰え、後に義演も退任します。
一時は廃寺同然まで衰微したが、5世義雲が再興し現在にいたる基礎を固めた。暦応3年(1340)には兵火で伽藍が焼失、応仁の乱の最中の文明5年(1473)でも焼失し、その後も火災に見舞われ、現存の諸堂は全て近世以降のものです。
(つづく)
参考資料:Wikipedia:ウィキペディアフリー百科事典・永平寺など