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明治の金沢“政治結社“⑩北陸鉄道と盈進社

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【北陸3県】
前田家が中心になり東北鉄道計画が、5年間の努力もむなしく潰れてしまいます。それから3年後の明治20年(1887)、全国各地で鉄道建設が進められ、もはや北陸でもじっとしておれなくなり、まず立ち上がったのが、北陸3県の巨商、富豪でした。

 


石川県では、金沢の菓子商で実業家の森下森八、橋立の回船間屋の久保彦兵衛らに、富山県、福井県の巨商、富豪ですが、卆先、努力し奔走したのが石川県では改進党の河瀬寛一郎らでした。当時まだ改進党は岩本知事の与党として県会を牛耳っていたころで、改進党がこの鉄道建設によって、県下の実権を握ろうしていました。

 


その年(1887)5月、金沢区会議員半数改選で改進党は大敗し、河瀬寛一郎は羽咋郡長に転出してその中心を失いが、計画はその後も着々と進められます。彼らは石川県の岩村知事は、富山、福井両知事の賛助をえて、同志244人を獲得し明治21(1888)年5月24日発起人総会を金沢で開きます。そして6月、富山の島田孝之は53人の連署で北陸鉄道敷設免許の申請をします。

 

 

(明治22年(1889)末、ようやく仮免許をもらいますが、本免許が交付は18ヶ月と条件がつけられます。北陸鉄道とは、現在の北陸鉄道株式会社とは違い、今のJRの福井・金沢・富山間のこと、当時、民間で計画が立てられ、3県の知事が賛助します。)

 


これを聞いて「こんな国家的事業は、公明正大、不偏不党で行なわなければならのに、改進党一派だけで進めるとはけしからん」と盈進社と自由党有志は怒り、明治22年(1889)7月、福井で創立発起人大会が開かれた時、妨害のため、福井に行き改進党が投宿する向かいの旅館に遠藤秀景ほか盈進社幹部、自由党や有志が陣取り、大会場に乱入します。

 


創立発起人大会を荒らされては大変と、「鉄道は、あくまでも事業であり、政治とは関係がない」と説明したが、遠藤らはそんなことを聞く耳は始めからもっていないので、たちまち激論になり、口だけで治まらず手が出てお決まりの暴力沙汰のなりかけたとき、大会委員長で石川県の岩村知事が入ってやっとなだめ一同引き上げさせますが、議事は終わることなく散開。岩村知事は委員長辞任を申しでたり、また、興奮のあまり胃ケイレンを起し卒倒するなどの一幕もありました。

 


福井での創立発起人大会乱入事件は大事の至らず済んでものの、その後、両派の対立は依然解けなく、明治23年(1890)1月、金沢の成巽閣で第2回発起人大会が開かれたとき、ついに流血事件が起こってしまいます。

 

 

 

 

(もともと、北陸鉄道敷設計画は、先に遠藤秀景が憲法発布の大典に参加したとき東京で、同じか参加した富山県の島田孝之、福井県の杉田定一から聞いてはいたのですが、盈進社が無視されたことで、遠藤のやっかみからか盈進社の常等手段、暴力沙汰に繋がっていきます。)

 


その日は、富山・福井から続々と発起人が金沢にやってきます。遠藤らは主だった発起人と談判をしょうと申し入れたのですが、相手は応じてくれないばかりか、各旅館は私服警官が同宿して発起人たちの護衛に当たっています。そこで、盈進社は大会の前夜、遠藤ら幹部が集まり協議の結果、大会乱入の方針に決まります。


(遠藤秀景は、翌年(1891)7月、日本初の衆議院議員選挙の立候補することになっていたので、この際、遠藤は乱入に加わらない方がいいという事になるが、遠藤は承知しない、そこで、幹部は遠藤に内緒で配下に手配を指示します。)


明治23年(1889)1月29日、兼六園内を通らなければ会場の成巽閣に入れないため、早朝より、紺屋坂の木陰で盈進社員が発起人らを待ち伏せし、人力車が紺屋坂から上がってくるのを待ち受けます。やがて4台の人力車が紺屋坂を上がって来ますが、内2台が餌食になります。

 

 

1台に乗っていた富山の大橋十右衛門が人力車から降りると1人が飛びかかれり、もう1人がこん棒で一発見舞った。びっくりした大橋は、一目散の逃げ回り、噴水前で追いつかれ、下駄で殴られ重傷を負います。

 

 

もう1台は、眼の前で乱暴を見て、慌てて引き返そうとしますが、別の茶屋のいた2人が飛び出してきて百間堀わきの道路に突き落とし、残る2台の人力車は逃げます。

 

(つづく)

 

参考文献:石林文吉著「石川百年史」発行昭和47年石川県公民館連合会など


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