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明治の金沢“政治結社“⑪盈進社解散!!

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【北陸3県】
その後、盈進社員は成巽閣の第2回発起人大会ぶち壊すため、成巽閣向かったところ、早くも金沢警察署の署長はじめ30人の警官が馬で駆けつけ道をふさぎ盈進社員8人が逮捕され、3人は重禁固3ヶ月に処せられます。遠藤は前回書きましたが、盈進社幹部のはからいで、暴力事件についてはまったく知らず、無事であった事は言うまでもありません。

 


明治23年(1890)3月26日、盈進社は内務大臣から治安に害ありと認定され、集会条例18条により解散させられてしまいます。結社12年、明治の石川県政治史に嵐を招いき、暴力という足跡を残した盈進社は、ここに一応ピリオドを打つことになりました。「盈(み)つれば欠くる月」!?盈進社も、盈(満)つれば欠けるのは道理なのかも・・・

 

 

(個人的な感情とか義理人情で集まった者が、たった一辺の法律によって本当に解散するものではないことは、現在も、あちこちの暴力組織で見られる通りですが、盈進社もその名称こそ消えてものの、遠藤を中心としてその余命を保ちます。)

 


その後の北陸鉄道敷設計画は、第2回発起人大会は予定通り成巽閣で行なわれますが、理事選挙において意見が対立し、おそらく石川、富山両県の理事争奪だったと思われますが、大会は数日間続きます。

 


5月には、石川県知事の岩村知事が愛知県知事に転出、後任の知事が着任しますが事務はまったく進まず。8月には発起人一同は総辞職し、一切を3県知事に委託します。3県知事は主だった発起人と協議し、とりあえず技師を決め、工事が難しい武生→敦賀間を国に敷設して貰いたいと鉄道庁に申し入れますが、これは許可にならず、本申請期間、明治24年(1891)6月が刻々と迫ってきます。

 


3県知事は、明治24年(1891)5月になって独自に測量係数名をきめて実測に着手する一方、政府に陳情して期限をさらに10ヶ月延長してもらいますが、会社の内情は依然好転せず、9月に金沢で発起人総会を開いたところ計画断念論が大勢を制し、北陸鉄道会社は、11月をもってついに解散。第2次の鉄道計画は消え、これで、明治31年(1898)4月、福井から金沢へ汽車が乗り入れるまで待たねばならなくなります。

 

 

(この計画のため森下森八は、莫大な資産を投じ、翌年11月には、尾張町の家が類焼にかかり、家運が傾きます。)

 

(つづく)

 

参考文献:石林文吉著「石川百年史」発行昭和47年石川県公民館連合会など


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