【金沢→東京】
明治22年(1889)12月には、板垣退助は愛国公党を組織しようと試みますが、まとまらず、明治23年(1890)7月の第一回衆院選までに、板垣は政党を組織し選挙にのぞまねばと側近らとともに衆院選の2か月前、明治23年(1890)5月5日に結党式あげます。
(憲法発布略図)
同じ自由主義の大同倶楽部は前日の4日、大同協和会は1月21日に結党式あげています。そこで3派の対立抗争避けるため、5月14日、明治23年(1890)に因み庚寅倶楽部(かのえとらくらぶ)とし8月に一大政党として結成。これは3派に首領をおかない連合体でした。
その時、遠藤秀景は大同倶楽部委員として3派会談にのぞむが、合同には反対、合同を主張する植木某と大論戦。委員長格中野某が調停を打ち切ろうとするが、竹内綱(戦後総理大臣吉田茂の父)がなだめすかし中間的のものに協議をまとめたと言われています。
庚寅倶楽部(かのえとらくらぶ)がつくられて間もなく、第一回衆院選挙が行なわれますが、政党は3派別々で、石川県では、遠藤秀景は大同倶楽部より出馬して当選。県下では4区にわけ、第1区は金沢市と石川郡で定員2名、第2区は能美郡と江沼郡で定員1名、第3区は河北郡、羽咋郡、鹿島郡で2名、第4区は鳳至郡、珠洲郡で1名の6名が当選します。
衆院選前から持ち越しになっていた3派(大同倶楽部・大同協和会・愛国公党)による新党結成について、反対論者の遠藤秀景は旧盈進社輩下一統を連れ上京し折衝をはじめます。
(板垣退助)
3派の中で大同倶楽部が大きく、他派は余りにも小さく、合同すれば愛国公党の板垣や他派に首領を獲られてしまいかねないことから、遠藤秀景は合同と見せかけて、適当なところで内部からブチ壊し、その主導権を握って自ら首領となり、新党を結成しようとしたのでした。
そこで遠藤は、合同派と非合同派に合同条件を作らせますが、非合同派の条件の中に「板垣を党首にしないこと」の一項に目をつけ、これを新聞に掲載させブチ壊しを図ります。
ところがブチ壊しはならず、逆の遠藤は合同派、非合同派双方から、“人事問題を勝手に決めて新聞発表するとはけしからん”と問責される形勢となり、九州の合同派九州同志会の河島醇の怒りは一通りではなかったといいます。
しかし、この窮地に追い込まれながらもひるまず、さらに一歩進んでブチ壊しの第2弾を放ちます。同志3人に旧盈進社の武断派に九州の非合同派数人を加え合同派の事務所に行き河島醇を呼び出し、ボコボコにし河島は負傷、同志3人は収監されます。
(遠藤秀景)
遠藤秀景は、合同派事務所に行き加盟を申し入れます。遠藤としてはおそらく暴行の報復として加盟がことわられ、一波瀾起こるのではと予期していたのに、先の新聞沙汰は遠藤ではなく、誰か非合同派がやったしわざだと勘違いし、遠藤の申し入れを喜んで受け入れたという次第。遠藤のブチ壊し計画はまたも失敗に終わりますが、彼の面目は一応保たれます。
明治23年(1890)9月15日芝公園弥生館で立憲自由党の結成式が行なわれますが、大同倶楽部の非合同派、遠藤と旧盈進社員、そして九州の非合同派はかねて計画のブチ壊し計画に入ります。まず旧盈進社は立党趣意書を“売薬の効能書のようだ”とけなし、遠藤が板垣に食ってかかりますが、大事のいたらず結成式は終わります。
翌日の代議員会で、遠藤は代議員の選出方法に難癖を付けますが、これも大事にいたらず、次の日、木挽町厚生館で再び代議員会を開会、そのとき遠藤は立党趣意書の中に「改進」の文字が有る事を指摘し「これは改進党と気脈を通ずるものだ」といいがかり付けて再議を要求します。会場は混乱して傍聴席でも合同派、非合同派が乱闘をはじめ、遠藤らは、予定通り憤然と席を立って、立憲自由党とタモトを分かちました。
遠藤はこのあと12月21日に、江東区の中村楼に900人の同志を集め国民自由党を結成しますが、その後、政府支援につとめ次第に気力を失って翌24年(1891)に解散します。石川県の同志も間もなく立憲自由党返り、遠藤秀景はいよいよ政界の孤児になっていきます。
(仮議事堂)
(当時、政府を攻撃する方に人気が集まります。第一回帝国議会では300名、吏党(与党)85名、民党(野党)171名、無所属45名で、立憲自由党、立憲改進党は野党に立ち、国民自由党5名は大成会と同様与党にまわります。)
因みに、当選300人中191人で最も多い職業は農業、単純平均で人口13万人あたり1人の議員が選出されたことになるが、概ね都市部に有産者(直接国税15円以上を払える富裕層)が少なく、寄生地主や製糸業者などが多い農村部に有産者が多かったため、農村部では数百から数千票を得ないと当選に至らなかったが、都市部では数十票程度で議員になることが出来ました。
(つづく)
参考文献:石林文吉著「石川百年史」発行昭和47年石川県公民館連合会など