【金沢→東京】
遠藤秀景は、明治26年(1893)盈進社の再興を画策するが果たせず、東京に出て実業界に身を置きますが、その間に、福岡の元玄洋社社長で明治27年(1894)以来代議士として活躍中の平岡浩太郎から多大の援助を受けていました。この平岡が憲政党結成に努力していた事から遠藤はいち早く、金沢の旧盈進社員に入党を進め、このため明治31年(1898)8月10日に八坂の雲龍寺に旧盈進社員108人集まって憲政党参加を決めます。
(雲龍寺)
(憲政党は、明治31年(1896)6月に結成。自由党(立憲自由党)と進歩党(立憲改進党)が合同で結党した政党で、第3次伊藤内閣が解散した着後の総選挙直後、すぐ再分裂して旧自由党側が「憲政党」を名乗り、旧進歩党側は「憲政本党」と名乗ります。憲政党(自由党系)は、2年後に解党。これにより板垣退助の政治生命が終わり、伊藤博文をリーダーとする「立憲政友会(りっけんせいゆうかい)」が誕生し、憲政本党(改進党系)は、12年続くが内紛により解党。新しく「立憲国民党(りっけんこくみんとう)」が誕生。)
(遠藤秀景)
旧盈進社以外の県下自由党・進歩党の党員は、旧盈進社より早く7月25日、並木町稲荷座(旧北国会館)の河北郡の本岡三千治ら700余人を集め憲政党石川支部発会式をあげ、ひきつづき里見町の大野屋で懇親会を開きます。
(並木町稲荷座跡)
遠藤は、そのとき中央での地位は、往年の知名度もあり末輩ではなかったが、その後、もと金沢の西方寺住職で盈進社員でもあった藤中観那のあっせんで旧進歩党系の犬養毅に接近し、富山の旧自由党系稲垣示を非難し、北信八州会での席上で稲垣示と争ったことから、遠藤の変節でとして政界の信を益々失い、再起不能になります。
(突き当たりが里見町大野屋跡)
解散された第6回衆議院は8月10日に選挙が行なわれますが、その時、憲政党一色になりますが、実質的にはそうではなくて、自由党系、進歩党系として激しく争い、金沢市や石川郡の第一区では壮士が横行し、旧盈進社員や自由党系の予戒令が敵用され、県下では、自由党系4人、進歩党系2人が当選します。明治35年(1901)の第7回衆議院選では、身代わり候補を立てたが落選の憂き目にあい、その後、遠藤はついに金沢の地を踏むことはなかったとか・・・。
(予戒令:公共の安寧秩序を乱す行為に対する処罰。明治25年(1892)1月25日公布、即日施行。大正3年(1914)1月20日に「予戒令廃止ノ件」によって廃止された。)
(六斗林月照寺)
遠藤秀景は明治44年(1911)5月16日東京麹町の自宅で波乱の一生を閉じます。享年59歳。友人河野広中、頭山満、犬養毅、大井憲太郎、杉田定一らが集まって芝青松寺で葬儀を営まれ、品川海晏寺に埋葬されました。のちに金沢でも菩提寺の六斗林月照寺で横地正果らが追悼会を営み、遠藤の国士としての面目を保たせますが、それにしても政治家としては、哀れで悲しい末路でした。
(六斗林月照寺門)
(六斗林月照寺の境内には、昭和5年(1930)5月16日、頭山満の筆で「遠藤秀景君碑」が建てられます。発起人は、地元では飯尾次郎三郎、石川舜台、大友佐一、米原於莵男、横山隆、横地永太郎、武谷甚太郎、浅尾義秀、酒井芳、清水兼之、関栄太郎、油谷定吉ら53人、これに犬養毅、頭山満、中橋徳五郎、永井柳太郎、木谷吉次郎が賛助しています。)
(遠藤秀景君碑・頭山満書)
それにしても、明治前半の石川県の政治史は盈進社の歴史といっても過言ではなく、盈進社の歴史は熱血漢遠藤秀景の一代記であり、善悪は勿論言うまでもないが、この世を己がまま、生き、往生したといえます。
(おわり)
参考文献:石林文吉著「石川百年史」発行昭和47年石川県公民館連合会など