【金沢・長町1丁目】
足軽の住居と言えば、長屋形式が一般的ですが、百万石の城下に住んだ加賀藩の足軽たちには、長屋ではなく、れっきとした庭付き一戸建ての屋敷が与えられていました。資料館の高西家も清水家も足軽飛脚で組地のあった旧早道町(現菊川二丁目)に残されていたものです。
高西家・清水家は藩政期に建てられ、平成6年(1994)の解体まで住居として使われていました。現在、金沢市内に残っている足軽屋敷の中でも、最も古いものと言われています。足軽資料館では、これまであまり知られていなかった足軽たちの姿と、加賀藩内の情勢などの背景を知るため金沢市が移築したものです。
(足軽資料館)
武士最下位層の足軽の居住地は約16万3千坪(53.9ha)あり、城下全体から見ると7.4%ですが、加賀藩の足軽の戸数は、幕末期に4,607戸(維新期に卒族とされた戸数)あり、足軽組地に住んだ加賀藩直属の足軽戸数は、2,689戸と町地に次ぐ宅地数です。加賀藩直属の足軽(割場附足軽や定番附足軽が多かった)と人持組などの上層部氏が抱えた足軽(陪臣)の住宅は、足軽組地の他に約2,000戸でした。
(清水家の石置き屋根)
このように、武士階級で最も宅地が多い足軽は、非常に高い密度で居住していたのです。また、大きな足軽組地には、角場(鉄砲)や的場(弓)が隣接して置かれ、定期的に鉄砲やゆみなどの訓練が行われていました。
この様な家並みを足軽組地と言い、足軽は一組ずつまとまって地割された地区に住んでいました。平足軽で50坪、小頭で70坪の宅地規定があり、小頭は一般に平足軽10戸の並びのうち1戸含まれています。
(清水家座敷)
町人の住む家は「町家」といい、道に家が直接面して建てられていましたが、足軽を含む武士の家は、塀を回した内側に平屋の家を建てる「屋敷構」で、足軽組地の屋敷は平士階層の屋敷(武家屋敷)の土塀や門と異なり、7尺(2、1m)の杉の生垣だけでしたが、それでも屋敷の構えをとっています。このような足軽の組屋敷には、一戸建てが10戸ずつ整然と並ぶ景観が広がり、現代で言う団地が形成されていました。
(杉の生垣と無花果・枇杷)
加賀藩の足軽屋敷は、庭付き一戸建てで、建物は20~25坪ほどの平屋の家で、屋根は、妻入り(左右両側に雨を流す)の家が多かったようです。屋根材は、昔は萱葺きでしたが、後に板葺きになり風で板が飛ばないように石置き屋根になりました。
「流し」のような水周りは、必ず前面にとり前の溝に排水しました。生垣の内側には、植木が植えられていましたが、多くは実の成る果樹(梅・柿・桃・無花果・枇杷等)や野菜が中心でした。
(他藩の足軽は、「足軽長屋」と呼ばれる共同住宅に住んでいました。現在、新潟県新発田市に残されている旧新発田藩の「足軽長屋」は、江戸時代には四棟あったうちの一つです。内部は、2棟割の8戸に区切られており、萱葺き屋根で軒の出も低い質素な造りとなっています。)
(北陸独特の土縁)
平足軽の家の間取りは、ほとんどが2列構成です。片側の1列は、前部から「玄関-玄関の間-座敷-土録」と連なる「接客・格式的」な空間です。もう一方は「流し-茶の間-納戸-鍵の間」が連なる「日常生活的」な空間になっています。接客空間と生活空間を大きく列構成で分けるというのが武士住宅の特徴で、足軽住宅も、接客を重視した武家屋敷の流れを汲む間取りとなっています。
(現在の足軽資料館・幕末に古地図青地家の隣り藤掛家)
足軽資料館:右隣りの浅香家は3,750石、現在足軽資料館は藤掛家、その隣青地家は、本性が本多氏で本多氏の初代政重が、直江兼続の養子のなった時の生まれた男子の血筋だと伝えられています。それやこれやこの界わいには過去400年の伝説、伝承がどこを掘ってもあふれ出るように思われます。
明治以後の一戸建て住宅の原型です。平士階層の住宅の武家屋敷では、小者や女中など、家族以外の使用人が必ずいましたが、足軽は家族だけで生活していました。一戸建て、建坪20坪余りで、家族だけで生活するというコンパクトな足軽屋敷は、明治以後の勤労者住宅のモデルとなりました。ただし、明治以後の住宅は2階建てになっています。
(つづく)
参考資料:金沢市足軽資料館等