【金沢】
さて、足軽というのは、鎌倉時代の書物に「身軽に行動する身分の低い歩兵」として登場します。戦国時代になると、団体戦闘要員として広く知られるようになりました。豊臣秀吉のように、戦場で功名を立て出世するのが夢でしたが、合戦もなく平和な藩政期になると、人数も制限され、リストラにもあい、次第に小人数になり、一人で軍事訓練と行政の両部門こなす多忙な日々を送ることになります。最近、観光客に英語圏の人が多くなり「ローサムライ」と訳されています。
(足軽屋敷・清水家)
加賀藩の足軽は、初代藩主前田利家公の頃には「御弓之者・御鉄砲之者」という区分しかありませんでしたが、5代藩主綱紀公の時に「大組・中組・先手組」に編成替えされ、足軽たちは、軍事組織としてこの3組に配属され、武術訓練にあたるようになったのです。
(城下の土地利用)
≪軍事組織≫
大組足軽 加賀藩の戦闘要員としての主力部隊の内、鉄砲隊となる足軽。
中組足軽 持方足軽とも、弓足軽7隊、鉄砲足軽4隊で編成する全7組の足軽。
先手組足軽 7組の人持組配下に属し、弓足軽7隊、鉄砲隊足軽14隊で編成された足軽。
(他に、餌指足軽・御手木足軽・御預地方附足軽がいました。)
武術訓練以外の日常業務としては、行政組織いずれかの役所に配属され、警備や雑務などに携わります。
≪行政組織≫
御普請会所附足軽 土木を担当する役所を御普請会所いい、ここで働く足軽。
公事場附足軽 公事場は加賀藩の最高裁判所、4人の公事場奉行のもとで働く足軽。
町附足軽 金沢町奉行のもとで働く40人の足軽。
割場附足軽 諸々の雑務(警備・掃除・走り使い・藩主が外出の時のお供を割り当てる割場に所属する足軽。
定番附足軽 「定」は「城」のこと、城番をする足軽(老齢なるとこの職に就く)
御船手足軽 大野川に船小屋があり藩船の維持管理をする足軽。
押足軽 御手回り足軽ともいい、殿様が騎乗するとき、下馬するとき、馬の口を押さえる足軽。
(早道飛脚足軽 大名飛脚ともいい、国許と江戸藩邸のあいだで文書を運ぶ飛脚足軽。)
足軽は組地に住み、家へは、良い知らせの昇進・拝領などは、前日に使いの者がやってきますが玄関から入り、それに対してお咎めなどの悪い知らせは勝手口から、いつの頃からかそんな慣習ができていたみたいです。
(足軽屋敷の内部)
藩制期の城下町は、お城や藩関係の施設を中心に、城下の大部分を武家屋敷が占めていました。城下の周辺には、高禄の八家や人持組の屋敷が点在し、その多くは上屋敷と下屋敷をもち、下屋敷内には陪臣(人持組の家臣)の居屋敷が置かれ、陪臣として所属する足軽(幕末には、約2000人)もそこに住むようになりました。
(天神様)
公務がないときの足軽は、家で家族と内職に精を出します。加賀藩の足軽たちが行なった内職は、お盆用の切子灯籠、台切子、お盆が過ぎると、お正月に飾る天神様の灯籠、練雛や土雛に彩色をしたもの、あるいは、張子の虎や福助、起き上がりなどの玩具を作っていました。
(加賀起き上がり)
足軽は、名目一代限りでしたが、親の跡を継いで足軽になる場合がほとんどで、加賀藩では足軽の定数が決まっていたため、足軽職に召抱えられには、親である前任者が退職または死亡に伴い、その実子・養子は所属する組の推薦が必要でした。
しかし、後継者がいない場合は、足軽株を売り出し、その買い手が養子縁組をします。つまり、お金を出せば、農民だろうが、町人であろうが足軽になれました。足軽は定員制でしたが、この株売買により空位になることはありませんでした。
(おわり)
参考資料:金沢市足軽資料館等