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金沢・御所町と卯辰山の昔むかし

【御所町→卯辰山】
御所町といえば、あの元ヤンキースの松井氏やACミランの本田君の母校星稜高校のお膝元として知られていますが、昭和24年(1949)考古学の高堀勝喜氏踏査で古墳時代後期の円墳群と評価。昭和28年(1953)には「御所八つ塚山保存会」結成され、以後、金沢大学の発掘調査で縄文・弥生時代の土器が出土。このことから縄文時代から集落があったとみられています。今から1300年前、京都山城の賀茂神社の分社として加茂神社が創建され、今も町民から厚く信仰されています。

 

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(御所・金腐川・真ん中金沢星稜大学・左桜丘高・右八ヶ塚山)

 

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(八ヶ塚古墳)


さらに、11代垂仁天皇(すいにん)の五世である大兄彦君(おおえのひこぎみ)の古墳も発見され、御所八ヶ塚古墳(御所八塚山130 m)と言いますが、このことから縄文・弥生時代から集落があったとみられています。

 

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(加茂神社)

 

(余談:21代雄略天皇時代、加賀国の初代加我国造大兄彦君(おおえのひこぎみ)は、第11代垂仁天皇の第十皇子、磐衝別命(いわつくわけのみこと)の四世の孫。磐衝別命は垂仁天皇の命により、能登滝崎に悪鳥が領民を苦しめたため派遣され皇子は首尾よく悪鳥を射落します。磐衝別命の3犬が悪鳥の羽を食い破ったことから「羽咋(はくい)」の地名が起りといわれています。) 

 

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(星稜高校)


建武2年(1335)には京都から二条大納言師基(もろもと)が加賀の国司に任命され、この町に大きな屋敷を構え、その場所が御所(五所)と呼ばれその名が地名として残っといわれています。

 

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(金沢星稜大学)

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(今も地名が残る、談義所地蔵尊)


現在の地名にも、その時代の名を残すところとして、二条大納言藤原師基(もろもと)が会議をしたところとして談義所、社寺のあった辺りが神宮寺、それから御所の卯辰の方角(東南東)になることから卯辰山と言う説もあります。

 

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(3代目の一本松・現在は枯れて無い)


約800年前、義経伝説では、今の宇多須神社の横を流れ“ひがし茶屋街”を貫け浅野川に流れる矢の根川は、義経主従が弓矢の矢を洗ったということから名前が残ったといわれています。卯辰山の毘沙門天(今の宇多須神社奥社)近くに義経所縁の袈裟懸け(一本松)があったと聞きます。

 

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(矢の根川)

 

卯辰山⑦一本松
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11559647068.html


約400年前には、今の宇多須神社のところに、前田利家公を祀る卯辰八幡宮が2代藩主利長公によって勧請されます。家康への配慮から八幡宮と神明宮を祀り、利家公を合祀する形で祀ります。

 

(卯辰八幡宮は、2代藩主は藩士に命じ禄高に応じて祭祀料は奉献させますが、3代藩主は前令より厳しく、藩士には、佳節や毎月の1日と15日の2度参詣することになっていたそうです。それため、この辺りは栄え今の烏骨鶏の店の辺りに大鳥居があり、今のひがし茶屋街が卯辰八幡宮の参道になっています。また、江戸時代中期には、毘沙門天奥宮の御旅所として卯辰八幡宮の境内に移し町人も集まるようになります。明治になりと利家公を祀った卯辰八幡宮は、境内の毘沙門天に譲り「宇多須神社」になり、卯辰八幡宮は今の尾山神社に遷座します。)

 

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(幕末まで、ひがし茶屋街の入り口に鳥居があった)


≪卯辰山の地名諸説≫
1 宇多須(うたす)神社社記によれば、養老年間浅野川のあたりから古鏡が出て、その面に卯と辰の文様があったので、卯辰神としてこの辺りを卯辰山と称した。
2 山の頂上付近に宇多須神社奥殿があり、それが慶長以前に宇多津にかわり、それから卯辰と呼ばれるようになった。
3 河北郡小坂村小字卯辰村があったので、古名宇多須山が語感も似ているので、卯辰山と称されるようになった。
4 以前、兼六園の所にあった本源寺から見て卯辰の方角にあるからと言う説?
(卯辰の方角にはないので誤説か!!)
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(宇多須神社・御旅所)

 

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(宇多須神社奥宮)

 

「卯辰」という名の由来は、3番目の山の麓の村が卯辰(うたつ)で山が宇多須(うたす)と語感が似ているというのが一番説得あるように思えます「うたす山」「うたつ山」だと云う方が言いやすいかもと思われます。

 

(卯辰村の名の由来は、「御所」から見て卯辰の方角だから卯辰村といったという説があります。)

 

参考文献:日置謙編「加能郷土辞彙」・平沢一著「卯辰山と浅野川」・ウィキペディア百科事典「国造」など


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