【小橋→応化(おいげ)橋】
3月9日、金沢のホテルで開催された「百年後の国宝を作ろう」キャンペーンの市民講座に行ってきました。今回は”城下町金沢を築いた武将たち“をテーマに、城下町が形成された歴史に焦点を合わせた講演とパネル討論でした。
(「百年後の国宝を作ろう」は石川の伝統と技を駆使して、百年後に誇れる「日本の国宝」をつくることを目指した県民運動で平成6年(1994)作家の堺屋太一氏が提唱して始まったキャンペーンです。)
(金沢城極楽橋・橋を渡った先に一向一揆の時代、一向宗金沢御堂がありました。)
このキャンペーンは、当初、県民投票などから「金沢城二の丸の復元」と「尊経閣文庫の金沢里帰り」に集約し、地元の新聞社が主催で講演会や探訪会を開催しきたましたが、最近は、金沢について研究者や著名な作家から深く学ぶ講座などが開催され毎回250名ぐらいの市民が駆けつけ熱心に聴講されています。
(3月10日の北国新聞記事)
前提が長くなりますが、9日の市民講座は、金沢の著名な研究者が登壇され、“城下町を築いた武将”をテーマに藩政初期の金沢の町の形成の経緯について、それぞれの先生方の説が語られました。
幾つかの説のなかで、金沢の城下町の形成段階で、町中に集められた一向宗寺院について述べられた先生もいて、聞き耳を立てて聞き入りました。金沢の一向宗(真宗)寺院は藩政期、東・西を合わせて70数ヶ寺が町中に点在していますが、地図を見ると金沢駅周辺にかなりの寺院がまとまっていて、現在も真宗寺院26ヶ寺が東と西の別院を囲むようにあり、藩政期からあったというお寺も多いようにききます。
(註:現在は町村合併や明治以後の建立などで209ヶ寺)
パネル討論の中では、司会者が、“3っも4っもある寺院群”といい、3っとも4っとも断定はされませんでしたが、この金沢駅周辺の真宗寺院群も加え4寺院群ということになります。これからはガイドとして、金沢の寺院群について語る時、いきなり“4寺院群だった”という分けにはいきませんが、3寺院群の他に、もう一つ一向宗(真宗)の寺院群が形成されていたことを認識しておかねばなりません。
(3月12日、快晴の東別院)
≪現在、彦三から駅前までに真宗寺院が26ヶ寺≫
真宗大谷派18寺 大谷派(東)金沢別院(安江町)、光福寺(彦三)、乗敬寺(彦三)、広照寺(武蔵町)、勧慶寺(本町)、光専寺支房(此花町)、西福寺(本町)、照教寺(本町)、乗善寺(此花町)、真乗寺(本町)、恵光寺(笠市町)、専光寺(本町)、長徳寺(彦三)、仁隨寺(本町)、報恩寺(笠市町)、発心寺(本町)、聞善寺(瓢箪町)、順教寺 (安江町)、光善寺 (本町)
浄土真宗本願寺派8寺 本願寺派(西)金沢別院(笠市町)、光教寺(笠市町)、西源寺(笠市町)、西勝寺(瓢箪町)、照円寺(笠市町)、上宮寺(笠市町)、松立寺(瓢箪町)宗林寺 (武蔵町)
(12日”ぶらぶら歩き”に真宗大谷派金沢別院に約30人が集まりました。)
実は、いつも浅野川周辺を散策コースにしている私としては、関心もあり、真宗寺院の集積も気付いていて、何回か書いてきましたが、今日12日午前中に仲間と、この辺りの“ぶらぶら歩き”をすることにしていました。そんなことを企画していたので、そのことばかりが耳に入り、他のことは余りよくは聞いていなかったのですが、幾つか“な~るほど”と思ったことをメモっていましたので下記に記します。
・お城を中心に町が形成された城下町というのは、世界でも珍らしく、日本には200以上の城下町がありますが、金沢は、今も惣構、寺院群、下屋敷など原型が分るような形で留めている数少ない町である。
・加賀藩前田家は領国としては広いが、金沢は町の規模は小さいく、他の城下町と違うのは、改作法により知行地を守る必要がなくなった家臣団が城下に住み、人が多く人口密度が高かった。
・城下町の形成には、方位、風水、一向宗寺院の移動、軍事上の戦略など、いろいろ考えられるが、藩主らの移動で家臣団の出入りから藩士の住宅問題が派生したことが町の形成に影響したと思われる。
・3寺院群の内、小立野寺院群が卯辰山麓や寺町寺院群と違うのは“藩主前田家の気持“でその時々に作られたお寺の集りである。等々。
(卯辰山麓寺院群約50ヶ寺、寺町寺院群約70ヶ寺、小立野寺院群約40ヶ寺、金沢駅周辺寺院群約30ヶ寺(内曹洞宗4ヶ寺))
話は長時間に渡り諸説の解説が展開され、複雑で分りにくい城下町金沢が少しだけ“な~るほど”と納得出来たような気になりました。
それから、多くの方々に理解して頂くための「城下町博物館」の創設も提案されました。